夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

坂本政務官、本音を謝罪して何になる

2009年01月07日 | Weblog
 坂本政務官が東京・日比谷の「年越し派遣村」に集まった失業者達に「本当に働こうとしている人か」と発言した事が問題になった。つまり、怠け者も絶好の機会だと集まっているのではないのか、と疑った訳だ。
 そして「本当のことを言った」「失業者はもっとたくましく生活しないといけない、との激励の電話があった」などと弁明した。
 本当に馬鹿な人だね、この人は。「失業者はもっとたくましく生活しないといけない」だって? 政府や大衆に訴えたりせずに、仕事が無くても泣き言を言わずに暮らせ」とでも言うのか。え? 一体どうやって暮らせと言うのかね。自分はのほほんと生きているから、切羽詰まった情況がまるで分かっていない。

 さて、本当の事を言ったのをなぜ謝罪しなければならないのか。間違った事を言ったのなら謝る必要がある。しかし自分では正しいと信じている事を言って、なぜ謝るのか。彼は失言したとは言ってはいない。
 「失言」とは「言ってはいけない事をうっかり言ってしまう」である。なぜ言ってはいけないのか。それは相手を不快にしたり怒らせたりするからである。それには正しい事とそうではない事とがある。
 正しくない失言をした苦い経験を私はしている。
 昔、ある編集者から仕事をもらった。その人が「大変だったら私も手伝う」と言った。それなのに私は「○○さんと一緒だと気が詰まるから」と断ってしまった。言って、しまったと思った。本音は「私は神経質なたちなので、他人と一緒の仕事は気が詰まる」といいたかったのである。だが、「○○さんと」と実にまずい言い方をしてしまった。そしてうまく弁明出来なかった。○○さんは明らかに不快な顔をした。「じゃあ勝手にしなさい」。それで新規の仕事は来なくなった。
 これは「失言」だが「本音」でもある。「○○さん」は「××さん」でも同じである。本音の言い方がまずかった。言い訳ではない。本音も言い方がまずければ失言になる。

 だが、世間によくある失言はこうした事とは違う。本音が世間には受け入れられないと知って、失言だった、と弁解するのである。つまり、自分の本音は間違っていた、と明言している。本音とは「本心」である。本心がそんなに簡単に変わってたまるもんか。もしそうなら危なくて信用ならない。
 変わる事の無い本心を一時的に偽る人間など信用出来るはずが無い。

 坂本政務官の本心は我々庶民を愚弄した本心である。罷免されて当然だと私は思う。それをかばう麻生総理は同じ穴のむじなである。明確に言えば、麻生氏は我々庶民を愚弄している。
 そしてこのニュースを伝える東京新聞の記事は非常に冷淡である。冷静ではなく冷淡なのだ。この記事の締め括りは政務官の仕事始めでの挨拶である。
 「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まってきているのかという気もした。学生紛争の時の戦略のようなものが垣間見える」
 何を根拠に「学生紛争の戦略が垣間見えた」のかを追究もせずに、そのままそっくり投げ掛けているだけである。そんな事を許すなら、庶民の訴え掛けの行動はすべて「学生紛争の戦略が垣間見える」と解釈されてしまう危険性がある。単なる偏った思い込み、いや、思い付きをなぜ手放しで認めてしまうのか。それではジャーナリストの端くれにもならないじゃないか。

 ある人が東京新聞には温かな心がある、と同紙で褒めていた。イスラエルのガザ地区爆撃のニュースで、他紙は単に爆撃の事実を淡々と伝えているだけなのに、同紙には被害者の庶民の目がある、と言っている。
 そうした温かな心とは正反対の冷ややかな心がこの記事に私は感じられる。そう、同紙はいつも温かさと冷たさの両極を揺れ動いている。様々な記事を見てそう思う。