8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

6月16日に思う

2010-06-16 12:26:17 | インポート

1960年6月、当時8703は19歳、大学生であった。いわゆる「60年安保」の年であり、学生運動盛んな時代でもあったので、頻繁にデモ参加の動員がかかる学園風景であった。

8703は一応音楽研究室に所属していたが、音研生はごく一部の人以外、学生運動に熱心ではなかった。8703も学生大会とかデモには滅多に顔を出すことはなかった。

しかし、1960年6月15日国会周辺の騒動で樺美智子さんが惨死した。その翌日(16日)には全国規模で抗議のデモ活動が展開された。さすがにこの時だけは、8703も自ら進んでデモに参加し、札幌市内の多数の学生たちと共に、現在の札幌中央警察署前に座り込みを行った。今となっては懐かしい思い出の一齣である。

同じ6月、先日の「YOSAKOIソーラン祭り」を見ていて、一心不乱に踊り跳ねる学生たちの姿は、果たして「平和の象徴」と言うべきか、はたまた「平和ボケの姿」と見るべきか、評価は様々であろうと感じた。飛び切りの笑顔、躍動する姿態からは若さ溢れる明るさは感じるのだが・・・・。

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混声合唱団「樹」への便り“個人練習について”

2010-06-14 10:47:10 | 合唱

合唱に限らず、実技の伴う種目(スポーツ・芸術文化活動)においては、個人練習がとても大切です。たとえチームプレイであっても、チームとしての実力を増すためには個々人の技量を磨くことが不可欠です。

「樹」の練習は月2回です。この2回の練習だけで、次の練習までの間に何らかの個人練習が伴わないとするならば、その人の技量的進展はほとんど期待できません。せいぜい現状維持が精一杯であり、人によっては「一歩進んで二歩後退」という状況の繰り返しになりかねません。

それを防ぎ、個々人が着々と実力を身につけて行くためには『日常的な自主練習』を実践することです。呼吸法、発声、音取り練習など、日に20~30分でも継続練習することにより個々人の技量は着実に向上し、その中からいろいろな課題も浮上してくることでしょう。

全体練習の中で課題を解決しつつ、更に個人練習を積み上げてゆくこと。この繰り返し、積み重ねが結集することによって「団の実力向上」として結実開花するのだと信じます。大切なことは団員一同が「良い音楽(合唱)を創ろう」を合言葉ににして一致団結、できるだけ足並みを揃えて進むことです。

そして、一日も早く『自分たちがある程度納得し、演奏を聴いてくれた人たちにも喜んでもらえるような合唱』を創造したいものです。その時が来たならば、何らかのステージ演奏に挑戦しましょう!焦らずに、急ぎ過ぎずに、着実に、前進あるのみです!!

 

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作曲家 猪 本 隆 ②

2010-06-11 12:57:13 | インポート

東京藝術大学入学直後から精力的に作曲活動を行う。1955(昭和30)年21歳には、歌曲<人に><うた三首><山茶花><初恋の(断章より)>を作曲。

その後も、歌劇<海に生きる人々>、<ヴァイオリン・ソナタ>、オーケストラ曲<交響曲的楽章>、歌曲<夢からさめて>、そして、卒業作品<小管弦楽の為の交響曲>と続く。

1959(昭和34)年東京藝術大学卒業。5月には京都女子大学付属中・高校教師になり、オーケストラと合唱に熱中した。引き続き創作活動も意欲的に行っている。

1970(昭和45)年京都女子大付属中・高校を退職し、滋賀大学教育学部専任講師に就任。そして、1979(昭和54)年滋賀大学を退職し、神戸女学院大学音楽学部教授となる。以後、2000年(平成12)年66歳にて神戸女学院大学を定年退職。同大学名誉教授となる。

神戸女学院大学を退官直後から体調を崩し、京都市内の病院に入院。2000(平成12)年9月22日、膵臓癌のため死去。享年66歳であった。

猪本は、日本語のよい歌を書くことをライフ・ワークとし、<青猪のうた><きつねのうた>をはじめ、多数の歌曲を作曲。歌曲集3巻を出版した。他に<尺八と弦楽器群のための「無明」>、<ローザ・ルクセンブルクのための「レクイエム」>、<オルガンのための「祈りGebet」>などの作品がある。  

                                以上、「猪本隆 遺稿集 いつも魂の歌を」より抜粋

なお、最後に「猪本 隆 メモリアル・コンサート」(CD)に添付されている津上智実氏の文中から一部分を紹介してこの稿を閉じる。

『猪本隆は生前自作の演奏に大変うるさかったと伝えられ、それゆえに当分は歌わないというスタンスを取る演奏家もいた。作曲家亡き後、これからはもっと自由にいろいろな演奏家によってさまざまな演奏が繰り広げられていくだろう。それが当然だし、そうでなければ作品はその生命を継続させていくことが出来ないとも言える。』

8月1日は、猪本隆、中田喜直の生誕日である。あえてこの日を選んで両巨匠の作品を歌う「早坂弘美ソプラノリサイタル」(ザ・ルーテルホール 13時30分開演)を楽しみにしている。

 

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作曲家 猪 本 隆 ①

2010-06-10 22:56:38 | インポート

昨日、早坂弘美さんにお会いした。そして、猪本隆さんについてお話を聞き、資料を見せていただいた。8703がこれまでこの作曲家のことを何ら知らずにいたこと、更には、岩見沢市および北海道においても(ほとんど)知られざる作曲家であることに驚きさえ覚えた。ここに、作曲家猪本隆について、知りえたことを紹介してみたい。

猪本隆は1934(昭和9)年8月1日北海道虻田郡留寿都村に生まれ、カトリックの洗礼を受ける。その後、父親の転勤で勇払郡厚真村、滝川町などで幼少期を過ごし、1948(昭和23)年に岩見沢市立東光中学校に転校した。中学3年の時、校内放送で<チゴイネルワイゼン>を聞いて、突然、音楽の世界を知り、音楽家になろうと決心する。

1950(昭和25)年岩見沢東高等学校に入学。ピアノを広瀬純子氏(岩見沢東高校教諭)に師事。翌年、作曲を筒井秀武氏(岩見沢東高校の校歌を作曲)に、ヴァイオリンを斉藤信和氏に師事。レッスンのために札幌まで通う。

1953(昭和28)年高校を卒業し、東京藝術大学を受験するが不合格。北海道学芸大学に合格。しかし、周囲の反対を押し切って東京芸術大学別科に入学、上京する。

1955(昭和30)年東京藝術大学作曲科入学。作曲を松本民之助氏に師事。  ~続く~    

以上、「猪本隆遺稿集 いつも魂の歌を」より抜粋。

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腹案

2010-06-07 14:55:37 | 合唱

先般、東京の某所において某氏が「私には腹案があります。」と発言して、以後、あの腹案とは何であったのか?と話題になった。結局、ご本人からは明確な答えが出ることなく、ひとまずは幕が降りてしまったたようである。

腹案を広辞苑で見ると、「心の中に持っている案」とある。したがって、一たび文言にしてしまうと、その時点で腹案ではなくなるわけだから、「腹案があります」と口外したならば、引き続いて「腹案とは、・・・・です」と、概略だけでも述べるべきなのではなかろうか、と思っている。

ところで、8703にも数年前から心に秘めていた『腹案』がある。ごく最近になって、腹案が具体化への道筋が見えて来たので公表することにした。内容はもちろん音楽(合唱)のことである。

2008年(?)に私的な親睦団体として「合唱人有志会」なるものを結成し、何度か飲み会をやった。しかし、中には「ただ単なる飲む会」ではつまらない、と思って足が遠のいた人もいる。それも至極当然のことと思っている。

しかし、何度かの飲み会を通して、新たな出会いとか交流の成果はあがっている。そして、8703がその先に見ていたのが『交流演奏会』(仮称)の開催であった。

もちろん、コンクールではなく、演奏時間が5~6分といった合唱祭でもなく、各団体が15分程度のステージを受け持つ交流演奏会の開催である。モデルとしたのが、21世紀の合唱を考える会 合唱人集団「音楽樹」が主催する「コロ・フェスタ」であった。

1か月ほど前、「実は腹案があります」と、初めてメールを通して呼びかけたところ、5名の人から賛同の返信をいただいた。その中でも、即座に「大賛成です」のエールをくれた小樽合唱連盟の中村浩氏の声に励まされた。

お互いに気が早い同士なのか(笑)?、話はトントン拍子に進み、2011年2月13日(日)開催に向けてアクセルを踏み始めている。

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