えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・散る桜落とす歯垢

2019年04月13日 | コラム
 半年ですねと電話口で受け付けの小母さんが慣れた口調で言い、二時半があいておりますが、と尋ねた。そのために予定を空けていたのでいつでもよかったので、そのまま予約を入れて当日駅に向かうとまた電車が遅れていた。約十五分遅れている元三十六分発の電車がちょうどホームに滑り込むところに間に合い、電車に乗って電車から降りた。歯医者はすっかり土地になじみ、半ば傾いた春の日差しと通りがかる学生たちのざわめき声が似合うたたずまいだった。

 職員のものではないスニーカーが一揃えあった。そばに自分の履物を置いて玄関を上がるとちょっと有名な料理家に似た風情の小母さんがあら、と声をかけた。今日はこれを書いてくださいねと初診のような表を出される。検診のための書類のようで、歯磨きの時間や回数といった比較的細かいことが簡潔なチェック表になっていた。提出してしばらくM.R.ジェイムズ全集上巻に目を落としていると老人が思ったよりよいよいの足取りで「ありがとうございました」と診察室を出て行った。名前を呼ばれるのでカバンと上着を抱えて診察室に入る。いつも奥の部屋から出てくる医者が珍しく、椅子のそばに突っ立っていた。

 今日は何もありませんね、とあまり感情のない声で医者は三十秒ほど口の中を見て言った。フロスで歯垢を削り落とし昨年の診察で「ここは虫歯になるであろう」と予告した個所を丁寧に見ていたが、残念そうにも励まそうともしない無表情な声で「何もありませんね」と告げた。それからブラシを取ると、これもめずらしくガチガチと上の歯へ時々器具を当てながら私の歯を磨きだした。けれども何事もなく終わることもなく、「ここ、気を付けてくださいね。前歯。ぬるぬるです。見栄えにも関わりますからね」と、そこそこ巨大なくぎを刺して春の診察は終わった。半年後、また来てくださいね、と立ったままカルテを書き込む医者の姿は、思っていたよりも小さくなっていた。

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