えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

怒りのプッチンプリン

2009年09月13日 | 読書
スタインベック「コルテスの海」(工作舎)を読了しました。
本の感想、といきたいところですが、思ったことをかきたくなったので
それをかきます。長いです。



「コルテスの海」は、スタインベックが海洋生物学者として、メキシコの湾岸を調査した旅を航海日誌風に描いた旅行記だ。しょっちゅう肝心な時に故障してスタインベックらを困らせるエンジン「海牛野郎」……翻訳でこれなのだから原文の怒りっぷりはいったいどうなんだろう……に頭をキリキリさせながら磯の生き物達を捕まえまくるスタインベックたち。海で生き物を取りながら、時折思索の時間が訪れる。そんな一章を読んでいて驚いた。こういうときに限ってしおりを忘れてしまうのだが、ともかくも彼はこんな趣旨の事を言っていた。

ヒトは、あんまりにも外のものと自分を同一視しすぎて、とうとう自分が見えなくなってしまっている。

と。
地位とか、家とか、お金とか、本とか、知識とか、そういう後付のものを手に入れて身につけただけで、それが自分だ、と言う風に錯覚して、錯覚した目でモノを見る。当然、あるがままには受け入れられない。そもそも、あるがまま、が見えなくなってしまう。あるがまま、現実を見るのは、自分の見たくないものを視てしまったり、思っていたよりも自分の思い通りにまわりは進んでいなかったり、ともかく嫌なものに気づいてしまうことがある。だがその気づきを受け止めてあげないと、何も出来ない。
何かするだけではなくて、モノを考える時にも、外物に囚われて、外のものに真理を見ようとすると、結局は何も得られなくなる。廻りまわって、戻るのは、それまで見てこなかった自分自身なのだなあとざーっと頭が理解したところでふと思い出した。

王陽明タンが同じ悩みを抱えていたのだ。

王陽明は五回迷った。既に有る膨大な考え方の一つ一つを吸収していって、病気になるほど吸収するための意欲を惜しまなくて、消化していったのに、それでも学んで学んだ先に求める答えはなかった。王陽明は最後に自分の中へ立ち戻ることでやっと、彼自身の考え方と言うものを見つけることができたのだ。
誰だって物を考える。その判断は古今東西老若男女通してそれぞれの違いがある。個々人の考え方と言うものが無い、と思っているヒトはいない。そんなものを見直すのに王陽明は人生の半分を使ってやっと気づいた。気づいたら、ふっとしがらみがとれた。それでも王陽明はその人生の最後まで、ずーっと悩み続けることになるのだが。

王陽明は、良知に到る、ということ、己の心にあるがままに、事物を見つめることが大切なのだと気づいてからはそれに専心しつづけた。集まってきた弟子に教えもした。考えて考えても、最後にまだ足りないと言い残して死んでしまった。「あるがまま」というのは、ひとたびモノ……考え方や習慣とか、目に見えないものも入る……に染まってしまうと、気づくのに時間がかかってしまうものの見方だ。自分の心と切り離して、それにあわせてゆくことは、誰でも行っている。だが、自分の心に嘘をつかず、かつ「ありのまま」を受け止めて動けるか、と言うと、これは相当に難しいことだと思うのだ。
「ありのまま」に見て、こういうことをすればよいのだな、と理解しても、手が動かない、心が頭にそぐって動いてくれない。それは、結局自分の心がまず「ありのまま」に見えていないだけであって、自分も含めて廻りすべてをぐるりと見渡せるようになった時、ようやく楽になれる。中国の仙人や外国の哲学者たちが、それぞれ思い悩む方向は別々なのだが、つまるところ思索をする人々というのがたどりつく大切なポイントとして、「自分丸ごとありのまま」に受け止める、ということがあるのではないだろうか。

だとすると、社会に出て成功しているヒトも「ありのまま」事物が見えて、その動きを把握して機敏に動く、ということは誰よりもきっと滑らかなのだが、この人たちの見方と、思索をするヒトが選ぶ「ありのまま」の見方はどのように違うのだろうか。そんなに違わないかもしれない。根は同じかも知れない。でも社会にいる多くのヒトは思索をしていたら手が動かなくて怒られて、減棒されて職を失ってえらいことになる。思索ではなにもできないでしょう、という「ありのまま」を彼らはみんなに突きつけて生きている。

息苦しいことのない世界に暮らすヒトとは、あんまり仲良くなれそうに無いな、と文中でスタインベックが言っていた。また栞を忘れてしまったが、苦しいことが無いとヒトの苦しさがわからない、ヒトの苦しさがわからなければ優しさもない、そんな傲岸なヒトには耐え切れない、そういうことだった。同じことをいろんなヒトが言い続けてこの言葉も擦り切れてきているとは思うが、それこそ王陽明が「到良知」を説くにあたって弟子達が上っ面の解釈ばっかりしてしょうもない、と嘆いたように、自分が苦しいことを乗り越えてもヒトの苦しさを受け止められる、聞いてあげることができるということは相当にまれだ。ありのまま、事象を見つめるのは、苦しみも優しさも持ちながら、それを一度脇に取りのけておけることが出来ないと、深みがなくて、味付けが薄くなってしまう。

海を眺めるスタインベックの目は、旅の楽しみに跳ね回っている。けれどその楽しみの前に、亡くした生態学者の友人エドワード・リケッツについて裂かれている一章が立っている。スタインベックの目はこの人と共に有る。でも、この人は一緒に旅をしたはずなのに旅の中でスタインベックが名前を出すことは無い。ひたすらに自分の目だけで、時折アクセントを織り交ぜながらも、この人の名前は出ない。

「ありのまま」は、あからさまにしなくてもよいものなのだ。




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