えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・ほかありきのわたし(『Serial experiments lain』DVD版)

2019年09月07日 | コラム
 その問いかけの簡潔さに比していまだに誰もが明確な解を出していない。たとえば面接のある受験であったり、就職活動であったり、「自分とはなにか」「何者なのか」という疑問は案外にして身近なものだ。ただしそこで問われる己というものは、他者と共有できる形で示されるものであり、必ずしも問いの答えではない。昨年二十周年を迎え、今年より商業二次創作を期間限定で許可したマルチメディアコンテンツ『Serial experiments lain』を形作る軸のひとつが、「わたしとはなにか」という答えのない問いであったことは、ひっそりと生き延び続けられた数多くの理由の一つであると思う。

 現代と似通った端末やネットワークサービスが人を囲う、一九九八年にとっては未来の世界で生きる中学二年生の少女「岩倉玲音」を中心に、できごとは雑誌とアニメ、プレイステーションのゲームという三つの媒体で描かれる。アニメと雑誌はある程度話が連関しているが、ゲームは全く話が違うらしい。主人公の精神科医と岩倉玲音の会話をひたすら聞き、プレイヤーの干渉の届かない世界をその言葉からくみ上げて考察するという、話だけでも人を選ぶ内容であったため、アニメのように再販やバーチャルコンソール配信というわけにもいかなかったようだ。アニメ自体も岩倉玲音を通じて描かれている世界観や、そこで問われている数々の複雑なことは奇妙に人を惹きつけるのだが、視覚的に見づらい演出もあり、とぎれとぎれの映像を頭で組みなおしてみる必要があったりと、素直に人へ勧めるのは難しい。けれど、小首をかしげたショートカットの少女の夢見るようにうつろな瞳は、そこに引き寄せられるには十分すぎる魅力がある。

 アニメの主人公である岩倉玲音は、感情の起伏が乏しく周囲への関心が薄い。ませた友人たちからは野暮ったく大人しい、幼さが目立つほかは普通の女の子だと思われている。玲音自身もその定義を否定されることなく、学校と家との往復を過ごしていた。それが「ナビ」と作中で呼ばれる端末に届いたメールをきっかけに転じてゆく。渋谷か新宿と思われる繁華街の薄暗いビルから飛び降りた、同じ学校の同学年の少女から届いたメールは、玲音をネットワークの世界へと誘い出す。死んだ彼女はネットワーク上に生きていると自分を主張するが、その存在を信じたのは玲音ただ一人だった。電子上の彼女とやり取りを続けるために、玲音は機能の高いナビを父にねだって手に入れる。その道具は徐々に玲音の手で拡張され、玲音は機械を通してとてつもない量の情報と人に接続する。それは当初のメールから離れて、彼女と瓜二つだがまったく性格も性質も違いあちこちで見かけられる「レイン」という存在と、岩倉玲音である自分との区別のために使われてゆく。

 出来事の起きる場所はあくまで玲音の訪れる行動の範疇にとどまり、限られた空間の中で肥大したナビを通して接続するネットワークが一瞬だけ世界の広さを垣間見せる。けれども常にそれは玲音という女の子の実体と主観に戻り、ネットワークに接続する彼女の思考は内へ内へと自分の奥底へ沈む。けれどもそれは自発的な思索ではなく、他者から得たもので自分の核になるものを構築しようとするもろい試みだった。端子をくちびるに繋いでコードで自分をがんじがらめにしても、ネットワークには届くが自分の奥底には届かない。

 最後に彼女が下す決断のきっかけは、彼女と同じくらいの年頃なら大抵誰でも経験があり、早くて次の日くらいにはどうにでもなる程度のささやかな他人との行き違いだ。だが、「自分とはなにか」という問いの答えの基準を他者の視点へ過剰に依存していた玲音にとって、一度の行き違いは深刻なエラーとなり組み立てていた「自分像」は崩れる結果をもたらす。そこから彼女が「自分」をやり直せたか、どのようにやり直せたかは詳述されないが、最終回では何かを納得したかのような、顔の下に心の詰まった少女の顔になっていた。その顔つきの確からしさが、岩倉玲音という女の子にとって、物語にとっての一区切りをつけているのだと思う。

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