えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

遊び心のプログラム<インタフェースの親指ボタン>

2014年01月11日 | コラム
新しいゲーム機を買ってゲームをする。左手の指が操作、右手の指が操作以外の指示をする。ゲーム機がゲーム機であることを知っていると、何故、という問いも持たず全てのコントローラがその通りにできていて、それが当然と信じ切って触っていたことを今更のように気づかされる。山の字をひっくり返したような任天堂のゲーム機、ニンテンドウ64のコントローラですら、山の字の真ん中に備え付けられたスティックは左手の親指があてがわれるように作られている。両手で山の両端を掴む。右手には6つのボタン、左手には十字キー、中心にはスティック。ゲーム機へ与えられる情報量は右手の方が多い。

Aボタンは肯定、Bボタンは否定、と、操作に慣れた指は疑問を持たず指示を与える。ボタンの意味付けは今まで積み重ねられてきた歴史でもあり、新しいプレイヤーをゲームのしくみに素早く慣れさせる目的もあるのだろう。たとえば任天堂が2000年に発売したゲーム機、ゲームキューブのコントローラには右手側にスティックと十字キー、左手側にA,B,X,Yの四つのボタンが配置されているが、ボタンの種類と配置はスーパーファミコンのコントローラと同じだ。もっとさかのぼればファミリーコンピュータ、ゲームがまだ家で遊ぶことのできなかった時代の筐体と、「左手で操作、右手で決定」の仕組みは決めつけられているのかもしれない。

右手側へコンソール、左手側にボタンという配置はそのままに、キーの形を変えることで意味づけをより推し進めている。よく使わせたいAボタンは大きくし、次に使わせたいBボタンはAボタンの隣に同じ形で小さいものを。XボタンとYボタンはA、Bボタンと違う形で統一し、使い道を分ける。世代交代に成功して生き残ったゲーム機はインタフェースを極端に変えることなく、新しい操作感を提供し続けているものなのかもしれない。

一方で体全体をコントローラと認識させる遊ばせ方をするゲーム機もある。インタフェースが少なくともゲーム機側からは空垂れられない操作は、ある程度制限は加えられるものの、自由だ。ただしその自由には部屋の空間と言う実際的な問題が立ちふさがるが。

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