関学の豊下氏が例のNHK安保特集座談で専ら安保問題という問題の本質を沖縄問題と位置づけていたことに思わずその通りと心の中で言ってしまったが、概して氏があの出席者の中では最も核心的な部分を衝いたと評価する。ただ日米安保を基盤とする論調に占められたあの論議は沖縄からするとやはり政府寄りの保守停滞性を感じさせ、あいまいなグローバリゼーションを背景にダラダラと永続的に欺瞞的に固定化する基地問題の解決に向かっては全く展望のない議論に終始した。彼らはアジア諸国との連携などと言うが、同盟連携共有などという言葉は歴史的に必ず期待の逆を実行した事実に眼を向けたなら、如何にそれが希望的観測に過ぎないかを認識せずにはおれまいに。絶対的平和主義や非武装中立、専守防衛などおよそ軍事関連にシフトした理念の堕落を何度経験すれば気が済むのか。それらの理念は日米安保の欺瞞性つまり憲法抵触の本質に関する論議を抜きにしてはただの空論なのだ。まず日米安保の破棄解消段階的消滅なんでもいいからここからはじめることだ。何故か。それ以外に自立、でなく自律する安保を語る環境は作り得ない。対等な日米関係などという虚妄を目指すのでなく(それは劣等感の裏返しだ)同盟軍を求めずに直にまっさらで現実に対面しろというのだ。敗戦の焼け跡に佇んで日本の行く末を案じたであろう民衆のたち位置で新たに戦後65年の世界を具に眺めることからはじめるべきだ。この国は世界の自由と民主主義理念から戦前の日本を近代化の失敗と位置づけやり直すことを心がけたのだが、そのやり直しにさえ失敗した。失敗はアメリカとの関わりで生じた。しかしアメリカの失政からきたのでなくアメリカの世界戦略からそれは全て決した。だからアメリカとの関係の全面的本質的検証に基づかずに繰り返した安保体制こそこの国の核心的障害といわざるを得ない。これは外交的には単純な問題で破棄通告以外にない。破棄して戦争、外交的険悪化などあり得ない国際環境にある。又米経済悪化状況で軍事費削減に繋がるならお互いに結構なことじゃないか。要はこの国のあらゆる国防安保論議にいつも日米安保基盤を打ち出す論者メデア主催者視点こそ今まさに打ち崩すべき根幹である。(中断)
芥川によると鴎外は北条霞亭の書簡を机の上にずらりと並べこれらの書簡には年代記がないが「僕はそれらを全て年代順に並べられる」といって威張ったと記している。瞠目したのは年代順に並べたことにでなく正しくその歴史学的学究的鋭鋒だったと思われるが、鴎外が彼の「歴史離れ歴史其の儘」にも言及される確かな歴史観の持ち主であり並みの歴史学者の追随すら許さぬ碩学だったとしても芥川は、詩人文学者として鴎外をみたとき「アナトールフランスのジャンヌダークよりボードレールの一行」を選び取ると書く。自殺した芥川を「どんなときも批判して踏み越える野蛮な情熱」によって克服すべき「敗北の文学」と評したのは宮本顕治だが、大正ロマンと偉大な明治、近代日本のいわば知的蜜月時代が終焉を迎える予兆のように昭和初期の悲劇的時代環境から15年戦争のがさつで機械的で冷徹な波頭を読み取ったかもしれない芥川は、「末期の眼」と自嘲した先に「アリョーシャ」の影を見ていたともいえる。「アリョーシャ」とは何者か。カフカの「カルルロスマン」だ。カフカもまた大戦とナチス台頭以前に自殺のように病死するが、現代戦争の機械化した冷徹な殺人ゲームが醸し出す奇怪でおぞましい本質を予感するときゲシュタポ秘密警察特高の毒虫のような昆虫的複眼を見なければ済まない被害者とは一体いかなる存在なのかと、問いかけるようにも思われる。妹は殺された。アリョーシャやロスマンはその100年後に飛び越えた「若い」希望だ。語れば嘘になる。しかし我々はそれを見ずにはいない。
彼ら(日本政府)が画策する普天間固定化(結果的実現)は負担軽減振興策の名の下に繰り出す本来容易な施策をさも「アメ」のように多用することで目くらます効果を狙い、ある日、出し抜けに辺野古を凌駕する米兵自衛隊ブル銃口が、反対派の目前に向けられるという事態へ移行するに違いない。戦後米軍の強制収用のやり口は、まさに不意をついて住民に襲い掛かった歴史である。今度は米軍ならぬ自衛隊がそれをするわけだ。一方こんなことは全く知らない本土の日本人がいる。彼らの未必の故意「黙認」という名の加担をこの国全体の罪として捉えたとき沖縄は確信する。彼ら為政者の野蛮な図々しさは敗戦で絶滅すべきだった旧日本軍的植民地陵辱蛮行精神なる奇怪な性向を物語り、皇民化教育と軍国主義乃至軍拡主義、あるいは奇妙な優越感の支配する対アジア沖縄観に基づく不埒な前近代的エリート根性が相変わらず根強くこの国にあることを物語る。敗戦はこの国にとって一体なんであったのか。日中戦の泥沼化とABCD包囲網が帝国を追い詰めたとき何故この国は軍部を抑制して非戦施策に転じなかったのか。ここにも文官による未必の故意「黙認」がある。軍部を抑えなかった文官広田弘毅がただ一人殺された極東裁判はこうした重大責任者を選抜する意味について日本国民に十分な説明をすべきだった。人が拠って立つその国土は君たちの私有地ではない。君たちは元々国から土地を借り税金を払ってそこに住している。しかし基本的人権を憲法で保証された君らは強制的にはそこを立ち退く必要がない。だから居住権財産権生活権に基づき辺野古は新基地建設に抵抗している。一方こうした住民の対極に対岸の火事状態の一般国民がいる。しかも決して対岸にはなく君らがまさに無作為に住しているその国土を守護する名目で存在するらしい日米安保こそ、辺野古の問題の核心であり、君らにとってある意味重大な本質的課題を示しているのだよ。だから辺野古の問題は決して対岸の火事ではなく隣家のもらい火に匹敵する。そのように思ってもさほど遠くない認識だといえる。君らの今している沖縄軽視無視は、君らの子供がしている「シカト」と変わりはない。いずれ自分に降りかかる火の粉を今避けえていると思っているかも知れないが、この国が誤った道を踏むときそれは徐々に君たちに襲い掛かる脅威となって現実化するのだ。