この5月15日は沖縄への施政権返還50年なのだが、この鳴り物入りの返還は実は「基地付き核つき」のまがい物で決して祝典に値するものなどではないということを、今更ながら沖縄県民は勿論日本国民すべてがはっきりと見極めておく必要がある(復帰も返還も真に当時の県民が望んだものではなく、日本国憲法理念への参加、以外ではなかったはずだ、このことは日流間のここまでの歴史が物語っている)。
所謂「構造的差別」という、到底抜きがたい時空の中に否応なく差し置かれた明らかな異民族(対大和民族)としての琉球民族(国連人種差別撤廃委員会勧告--対米・対日--では明確に、沖縄の基地偏在実態を人種差別としている)https://ryukyushimpo.jp/news/entry-794147.html
21世紀においてこの差別構造は、勿論時間(日琉間歴史と琉球処分)と空間(日米安保体制による地理的支配)が必然に築き上げたものとしてあり、現況の在り様を造出した経緯は、抑々日本という国の400年来(徳川幕藩体制以来)の在り様と軌を一にして、その国家的功罪がそのまま反映されていた。と同時に、異国であるアメリカ合衆国の第2次大戦後の一極集中的武断的在り様が、世界覇権的行為の一環で、この国を敗戦国として永続的に凌駕する(防共構図の中の西側世界の傀儡として)過程で、日琉間交錯構造の上に非論理的に君臨する結果を生んだと言える。
全く部外者として沖縄問題を見た場合、例えば「辺野古問題」に関して言うなら、「沖縄戦」とその激越な戦禍の座視しがたい印象(事実としては県民の4人に一人が沖縄戦の犠牲になっている)からして、かかる自治体に戦争のための異国の軍事基地を実質新たに構築しようという話は、まことに人を食ったような甚だしい違和感を禁じ得ないというのが正直なところであろう。しかしこの国の主に2+2外交の主体となっている外務防衛官僚にその感覚は皆無らしい(旧民主政権で普天間基地の代替施設は「国外、最低でも県外」と公約した鳩山政権が空しく辺野古回帰で瓦解したとき、後日談で当の元首相がそういう官僚の「嘘」に騙され実際他県他地域に移設することを断念した話を告白している)。以後「辺野古唯一」は思考停止の金科玉条となって梃子でも動かない国家然と澄ましかえっている。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/174853
12歳少女が3人の米兵に暴行され…それでもアメリカに物言えない政府
(2022年5月1日付東京新聞記事)
普天間基地返還、という文言が一つの沖縄的基地公害排除の先駆けとして立ち現れたのは、上記1995年9月の無残な米兵による凶悪犯罪に「日米安保体制」の危機(彼らにとっての危機は何時でも彼ら自身の利害関係に関連して生じ、人道的な意味合いを必ず希釈し、なし崩しに曖昧化するよう働いてきた)を感じずにいなかった日米外務防衛関係者と為政者が、当時の沖縄県知事大田昌秀が抱懐した「沖縄の米軍基地を全面返還させる」という根本計画を横目で見ながら、取り敢えず考慮された「世界一危険な基地」(2003年ラムズヘルド国防長官談)としての普天間基地の返還という交渉の席についてからであった。つまり、この問題の最大のモチーフはあくまで「危険性の除去」であり、沖縄の実質的な負担軽減が焦点でなければならない。
このあと何年にもわたる返還交渉の詳細を今敢えて省略しつつあらゆる論理的思考の可能性を最大限許容するとしても、我々第三者の目はどうしても必ず次の矛盾に逢着する。
2+2日米外務防衛官僚による交渉の結果は、普天間基地返還はその代替施設の造作を条件とするというもので、しからば、基地公害と存在性そのものの危険性を、日本国内国民居住の他地域にそのまま肩代わりさせるのかということ、しかも、結果としてあろうことか、同一県内である沖縄県名護市辺野古区域に?それで県民が納得すると誰が思うのか?否、沖縄の負担軽減はどこへ行ったのか?
我々は既に辺野古移設の本当の意味を明らかに見出だしている。1960年代に米国米軍が画策していた新基地建設の場がまさにここだったと。つまり普天間基地代替施設などというのは真っ赤な嘘で、実際は沖縄北部地方に、現存キャンプシュワブと合体して一大新基地を構築するための言い訳に過ぎなかったわけだ。しかも不要となった北部訓練場の一部を返還して(恰も負担軽減の実を上げたかのように印象付けて)新たにオスプレイ発着のヘリパッドを高江に造作し、これと連動連関させる強力な軍事基地として辺野古が選ばれたというのが真相だ。
ここに普天間返還問題の人道的偽善(危険性の排除という努力目標は雲散霧消し、5年内返還なる安倍・仲井真約定もとうに空文化し、今では向後何十年も据え置かれ剰え改築さえ取りざたされている---安倍政権の知事籠絡が如何に詐欺的手法で行われたかが暴露されている)、まやかしに満ちた日米合作の自治体自治権侵害実質がはっきりと見えてくる。
1609年に始まる島津侵攻では、主に当時の琉球王国が有していた中継貿易利権の奪取が目論まれている。勿論江戸幕府の意向に沿ったもので、ほぼ無血で侵攻成ると以後琉球王府は謝恩使・慶賀使による定期的江戸参勤を義務付けられ、独立性を保ちながら一方では幕藩体制に否応なく組み込まれたという史実が判然する。
他国に侵攻するという野蛮な国家行為が既に豊臣秀吉の朝鮮出兵で先鞭をつけられ、この国の為政者の何らかの血の騒ぎと見えないこともない話になり、通観してこういう事実を現代へまで引き延ばすと、どうしても先の大戦のことを考えざるを得ない。
四方を海で囲まれた天然の要塞としての島国日本国は、偶々時宜を得て襲った台風なる「神風」のため巨大な制服国家、大陸の覇者元(モンゴル、蒙古)をさえ水際で蹴散らし二度にわたって救国を成就したわけで、神の業は確実に神国日本を印象付けたようだが、このあと、近代化し日清日露戦役にも不思議に勝利しいよいよ大和民族にある意味根拠なき自信を植え付けることに成功したのであろう。根拠なき、という意味は、精神論が勝って具体的現実的方策に手薄となった、という結果が、先の大戦の敗北だったということだ。そしてこの神の業が下しただろう日本国、大和民族の敗戦の痛手は、どのようにこの国と国民に前向きの心性を齎したかと考えるとき、残念ながら真逆の心性ばかりかむしろ後ろ向きのそれさえ促したとしか思えない。この場合、その国民自体のことはまだ希望がありとはいえ、指導者、為政者、代議者たちの中には歪んだ国家的野心さえ立ち現れてきたということ。
琉球処分と銘打った明らかな琉球王国併合の蛮行は、1872年に琉球藩とし1879年沖縄県とする、大和民族による身勝手な行政行為で、近代化した日本帝国が朝鮮併合と同様武断的に弱小国家を属国化した話以外ではない。
朝鮮半島は日本の手を離れたあと、不幸にも大戦後5年(1950年)もすると東西陣営の覇権争いの餌食となって南北に分断され、今もって戦争状態を脱していない。取り分け南は米軍の駐留を余儀なくされ、日本同様パクスアメリカーナの支配下に置かれている(但し基地問題にあっては日本ほど自律性が欠けているわけではない)。
日本の近代化は残念ながら跛行性を帯びた偏頗な改革(人民や民衆の、下からの改革ではない)であり、江戸幕藩体制は浦賀湾に現れたたった4隻の米軍艦隊に右往左往し、あっという間に大政奉還、王政復古の大号令の下瓦解、権力者側の生き残りが牛耳るような階級的矛盾を抱えたまま国際社会に放り出された。(つづく)