物事に対し虚心坦懐になるということは、どんな場合でも常に心掛けるべきことであろう。不可知論からすると虚心で坦懐であることは考え始める取っ掛かりにおける最初の試練としてあり、むしろその精神的平衡性を何度か俯瞰すること(検証すること)が基本的に求められる。「無知の知」はソクラテスの哲学的出発点であり、これを軸に哲学することが彼の「対話」だった。おのれの無知を知ることが真の知であり、その伝では不可知的に考察することこそ物事の真相、真実に迫る唯一の確からしい方法だと筆者は考える。ところが人はどうしても結論を急ぐあまり自ら抜け出せない迷路に入り込んで相応しくない論法で無味な答えを引き出してしまう。知りうべからざるものとしてある宇宙について考えることは、いずれにしろ暫定的仮説的結論しか与えられない、と肝に銘ずることだ。
台風17号はこれも同じように沖縄本島を避けて(先島諸島に影響があるとしても)台湾方面にコースを取る、と予想されている(台湾の繰り返される激しい台風被害は察するに余りある)。例年になく1号発生が遅くなったのに拘わらず次々と発生してあっという間に17個を数える台風だが、今年に限って言えばその暴風が海水を攪拌して海水温を下げサンゴの育成に好環境を提供するという副次的な役割を受け得ない沖縄海域は、環境学的にむしろそれの訪れを心待ちする一面もないわけではないらしい。最近の台風でヤマトゥ本土での激甚な被害が日本国民に深刻な打撃を加えているとき、沖縄は逆の意味での悩みを抱え込んでいるというわけだ。
沖縄という、我々県民にとって見た目よりはるかに大きな世界(と思う)は、本土とは違う価値界に存在している(筆者は未だに軽いカルチャアショック状態に居る)。沖縄にとってヤマトゥ本土、内地は別の世界(人間の営為としては共通なのだが)であり、ここでは彼等ヤマトゥンチュは残念ながら常に「よそ者」だ。ここにヤマトゥの日本人の沖縄に対する度し難い勘違いがある。彼らは此処に来て、高江や辺野古で我が物顔に、したい放題しているが、その「我が物顔」のことを行う場所は残念ながら元々ヤマトゥンチュたちのものではないし、彼らが勝手に来て沖縄の現状を変更させられるようなものでもない、ということを、県民はみんな明確に知っている。第一に精神が違う。これは沖縄に就いて筆者が確信している唯一のことだ。
勿論、アメリカ合衆国の属領、植民地、日本国が沖縄県民の正式な容認のもとに米国に提供した基地の島でもない。全ては彼ら為政者や統治者たちの思い上がった、県民には何の関係もない錯覚であり、彼らが勝手にそう思い込んでいるだけの架空の話がここではまかり通っている如くに見える。彼らの頭の中だけで通用していることが、沖縄では何の問題もなく具体化し現実の出来事となると、沖縄以外では思われている。この野蛮人どもの恐るべき妄想は例えば普天間返還という茶番劇には20年以上の時間と血税を湯水のように費消しているが、以前一度政治的に放逐されてから何気に帰ってきた狂気の安倍晋三は、この時点で本気で辺野古に新基地を造ろうとし高江にヘリパッドを造作しようとしている。彼らの頭の中で起こった意味もない妄想に過ぎないのに何故これが実行に移されているのか。そこに、一時的なものに過ぎない権力に溺れた彼の浅ましい野心が見え隠れする。だが、我々にはこの史上最低の宰相の思惑をあれこれ忖度する謂れもないし、彼が無法に違法な自治体侵害を現にしていることから我々の言動をはっきりと決していくのである。彼がしていること、しようとしていることは、沖縄では直ちに傍若無人にその生存生活自然環境を脅かし、破壊することとして認知されている。
日本の政府官僚は沖縄の惨状に関して国連機関が勧告するところを決して受け入れない。日本や世界の有識者が何度となく抗議声明を発信してもこれに真摯に向き合うこともない。環境団体が繰り返しその国策の環境破壊性を言い募っても全く知らんぷりを決め込んでいる。口にする言葉はいつも「辺野古唯一」であり、それの理由、根拠も今や全て論破されているのに、「政治的理由」というあり得ない理由をぶち上げて言いのけようとしている。その態度は既に盲信、狂信、米国一辺倒、という誹りでしか語れない。
琉球沖縄は、ヤマトゥ日本人とは別格の稀有な存在であり、現代の奇跡ともいえる。この存在性が米軍の軛や日本政府のいい加減さから脱却したとき、恐らく我々は精神の真に高尚な羽ばたきを見るであろう。(つづく)