沖縄戦と米国の戦争占領(ニミッツ布告)及び軍政府、民政府の弁務官支配により、その(「銃剣とブルドーザー」という)戦後史から推して、総じて沖縄の人々は、家郷を奪われ愛すべき土地を失い(基地化され)、多くの係累さえその絆をズタズタにされ(戦死による死別等)、本質的には「さまよえる民」となったと、いうことであろう。このことを踏まえないと事柄の真相そのものが見えてこない。沖縄返還で日本国の一地方自治体に戻り(県として帝国に組み込む処分により沖縄県は王府国家から日本の単一の属州となった、と見れば返還は、もう一度その属州に戻ったという意味になる)、曲がりなりにも日本国憲法下にその法的身分が保障された。しかし、厳密にはこの国は米国の傀儡国家であり、取り分けあけすけに、日米同盟と地位協定が憲法の上空を掠め飛ぶ、という実態(外交的矛盾=外交関係が不平等でしかも独立国とされた状態)に置かれている。つまり保障されるべき国民としての権利は事、対米関係特に基地に関してはむしろこれが保障されないという不文化法が厳然として存在する。
この事実を承認しないと全ての人民闘争の政治的民生的な展開の有効性は望むべくもない(闘う相手がはっきりしない)ことになる。但し、米軍基地に関して言えば、いくつかの証言によると基地の存続と沖縄偏在の続行は日本政府がこれを強く米国に求め米軍(ペンタゴン)がこれに便乗し(居心地のいい)オキナワに固執した結果という事実がわかっている。日本政府が沖縄基地存続を「唯一の手段(辺野古移設など)」として止まないのは、「本土」のどこにも移転を可能にする自治体がないという、理由にならない理由による。しかしこのことは「日米同盟」を自己負担で受け入れる自治体はどこにもないという、戦慄的な事実に日本政府が直面しているという意味になる。彼らはおのれらの拠って立つ基盤が損なわれる危機感から、どんな手段を弄しても沖縄に基地を押し付けるべく(辺野古移設を第一要件として)、その権力構造を再構成した(勿論、大元は安倍晋三以下が安保法制他悪法の制定のためにそうした)のだった。結果、三権(司法立法行政)は行政権に独裁合一化され、重要情報統制(官房室からの大本営発表)、国民の私的情報把捉機能整備(マイナンバー制)、言論の抑制、弾圧、恫喝(NHKはじめマスメデアの締め上げ)によるジャーナリズム萎縮化、その他の全体主義手法が浸透した。勿論公安関係もまた安倍色に染め上げ海保、県警等上意下達の徹底化が機械的に謀られた(ナチスの命令系統においてもまた如何なる国家犯罪も盲目にこれに従うべく従順なる役人と実行機関が養成された.....この恐るべき集団犯罪化についてハンナ・アーレントは「アイヒマン裁判」を通し開陳している)。
国家犯罪はこのように、ナチスドイツの手法が最も有効なものとして安倍政権では暗々裏に取り入れられている。その鉄壁ともいうべき城塞を切り崩すには今までの戦後民主主義的なやり方では恐らく大いなる後悔しか齎さないのだろう。翁長氏の現在までのやり方には決定的なものとしては何も示されていない。むしろ戦後民主主義的な在り様で事が進んでいる。そのために大向こうはこれをもって疑心暗鬼に陥り、知事権限の絶対性を信奉するあまり、さっさと承認撤回又は取り消しすべき、と言って止まない。だがこれまでの経緯から見て、この安倍政権は、地方自治権又は知事権限など一顧だにしてない様が見て取れるだろう。ヒーラルキーの頂点に君臨していると錯覚している安倍晋三にとって、憲法はもとより民意、民主的手法などというものは赤子の手をひねるがごとき容易さでねじ伏せるつもりなのだ。ここにこの政権の暴力性が伏在している。唇に微笑を湛えながら殺人をしてのけるこの安倍晋三政権に、果たして琉球沖縄の根強い草の根の闘いが、そうやすやすと斥けられるか、筆者にはそのほうが信じがたいし、仮にそうなったとして日米同盟はおろか沖縄県のマグマ化した憤激をこれからどうやって受け止めるつもりなのだろう。(つづく)
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