沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩595 沖縄からの発信 3

2015年06月18日 12時30分54秒 | 政治論

 人は死ぬ。

 死ぬまで生きる。

 この二つの事柄のみが人により知り得て信じ得る確実なことである。だからトルストイが「人は、生きて苦しんで死ぬだけだ」と言ったのは間違っていないのだ。苦しみは煩悩からくる。だがこの世はこの悩ましい煩わしさとの関わりにおいてのみ成り立っている。誰もこれから逃れようがない。しかし人はそのことを悟らない。だが、悟りとは何か。それは人が人であることをやめることではないか。では人はこの悟らない状態でのみ己を実現すると考えるべきではないか。己とは何か。

 おのれがそれ自身であることを追究していくと結局、逆にあらゆる軛から自由であることをこそ最上の自己実現と考えるのは当然だ。軛、あらゆる奴隷的隷属的従属的な関係性を、自己実現の無効性において考えること、つまり最大の敵、障碍、壁として措定すること、そして、これを排除し取り除き撤去せしめようと現実に働きかけるとき、この自己の前に立ちはだかるのが「社会」「国家」「世界性」あるいは広義に「他者」という存在と言える。

 我々は全く単独には自己をひとつの存在として考えることができない。神学的な意味ではなく、あるいはキュルケゴ-ルの教義的な「絶望」の説明に拠るのでなく、我々はある関係性においてのみ自己を得る、ということを現実に確認しなければならない。得られた自己はだから関係他者から投映されたのであって、元々「エデンの園」のアダムやイヴのような純粋な奇跡として無垢なわけではない。確かに「物心がついてから」我々はありとあらゆる雑多な知識や情報に埋もれて生きてきた。その中で我々が独立した塔のような在り様で群集の頭越しに「悟りきって」宇宙や世界を睥睨しているわけはないのだ。

 さて筆者がこのような自己認識の端境に立っている理由は、もしここ沖縄に、齢50を過ぎてから、遥か2000キロの空間の隔たりを飛び越えてやって来る、というようなことがなかったら、そしてここに10年近くも住民として生活する運命になかったなら、国によって自己実現できてない、あるいはしようとして阻害されている現状と絶えず闘わなければならない、というような琉球沖縄の実態に否でも対面しなければならない運命に立ち至らなかったなら、恐らく生涯何も知らずに日米安保体制と沖縄安保過重負担と、沖縄戦の生々しい傷跡、人々の自尊の念を傷つけて止まない日米政府官僚、日本国常民の無為無知無関心未必の故意に加担して、我知らず生得の罪業を積み重ねていく生存と死を、無意味に晒すだけのことで終わったのであろう、と思うからだ。それは恐らく間違いない。

 大浦湾での船舶隊による決死の抗議活動の成果として、防衛省による国家犯罪、埋め立てのための掘削ボーリング調査は3度目の期間延長を余儀なくされた。未だ、彼らは明らかにサンゴ礁を傷つける人類的な意味での自然破壊行為の調査段階で停頓している。相変わらず愚昧な大本営発表は夏場の埋め立て本工事突入を言い募るが、これに対する市民活動や県による阻止活動、知事市長県議会島ぐるみ会議等の厳しい突き上げが、安閑と彼らの軍拡対米追随、戦争礼賛行為に約手など与えない気組みとなっている。

 筆者は第三者ではないが、当然に当事者としての県民であり、近隣住民の一人だ。オスプレイが我が物顔で我々の頭上を飛び交うような島にしたくないし、させる気もない。即座に思い浮かぶのは、あそこもここもかつて一家掃滅や人体が爆裂で肉片となって飛散したり血で染まった、という沖縄戦の映像である。そういう土地に米国のために軍事基地を新設しようという、SACOの連中の発想は人間失格の発想でしかない。どうして彼らはそのことを先ず念頭に置こうとしなかったのだろうか。どう考えても狂気の沙汰だ。(つづく)

 

 

 


詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 沖縄タイムス記事

2015年06月18日 10時53分38秒 | マスコミジャーナリズム

翁長知事、米研究者らと会談 「沖縄の現状は不平等」

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=120374

翁長知事きょう会見 辺野古立ち入り再び要請へ

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=120326

辺野古に作業車両27台入る 市民「工事今すぐ中止せよ」

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=120368