沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩578 日本国の現実 9 国政及び沖縄

2015年02月15日 07時48分28秒 | 政治論

 名護市辺野古埋立工事に関し日米自然保護団体が、米サンフランシスコ連邦地裁に提訴していた「沖縄ジュゴン訴訟」で、地裁がこれを棄却した、という報道は、日本国内地では全く無視されているだろうと思うのだが、此処に見られる米国司法の在り方こそ米国全体に言える誤った全体主義を象徴しているのであり、「司法が政治介入できない」という文言には明らかな米国家安全保障機構の政治介入ニュアンスが透けて見える、ということだ。

 司法手続きのことではない。米地裁の裁判官の中に仕込まれた決定的な体制迎合主義は、日本人の目で見ても実に情けないものを痛感させる。問題は自然保護のことであり、政治問題ではない。この明らかな誤解は日本国公機関にも通底している。本質的な問題について司法が逃げるようでは国民は一体何を根拠に生存生活の保障を図るというのか。

 日本国での本質的な問題の第一は9条に関わる一切だ。司法は他の2権(行政、立法)と共に独立した権限を有している。当たり前のことだが司法に政治介入は当然にできない。しかし司法もまた政治介入はできない。司法ができるのは本質的に問題が意味する処を純粋に評価裁定することであり、国民が納得できる見解を根拠に判断することである。裁判官のいう「政治問題の法理」は言い方はご立派だが所詮「司法は政治に口出しできない」、ということでしかなく、司法の権限において工事差し止め出来ないということの根拠たり得ないことは明白だ。彼は政治問題に介入している、何故なら「辺野古のことは日米間で合意した決定事項だ」、と、ここで明瞭に政治介入しているではないか。何故彼はそのように断言できるのか不思議でならない。彼は辺野古問題の専門家ではあるまいし、沖縄県民という地元の声を無視して強行されている実態について何の言及もしてはいない。つまり、これは純粋な政治問題だ、と一地方裁判官の権限を逸脱して結論付けていることになる。しかし辺野古のことは飽くまで政治問題にはならないのであり、そうしたいのは権力者側の心性に過ぎない。沖縄に軍事基地を造る何らの必然的条件がないことを「政治的な必然」という新たな言い訳で糊塗しようとしているだけだ。

 いずれにしろ、地政学的根拠も抑止力もはたまた現代軍事戦略地図からも全く沖縄に基地を置く理由がないのに「政治的理由」などというふざけたことを言ってまで飽くまで沖縄にこだわるのは、ここまで来ると気違い沙汰である。(つづく)