沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩576 琉球沖縄の現実 34

2015年02月01日 11時37分54秒 | 政治論

 かつて1927年(昭和2年7月24日)睡眠薬自殺した芥川龍之介という人は、その自死の理由を「ただぼんやりとした不安」と書いているが、今静かに思いを巡らせると、氏が「理性の私に教えたものは、畢竟理性の無力だった。」(侏儒の言葉)とするそれは「非暴力不服従」と正負のベクトルを超えて相通じるのかな、ということに何となく想到する。我々が「暴力」に身を委ねようとするとき自ら「理性」的にこれを押しとどめようとするが、確かにこの場合、理性は逆に言えば野蛮で暴力的なものに対して無力なのである。あるいは非暴力的なのだ。思い通りにならない相手を力でねじ伏せる(思わず手を挙げる)、あるいは暴力的予兆によって相手を震え上がらせる(恫喝)、あるいは何もできない民衆の頭上で計画し実行に移す(市民の意見に耳を貸さない)、といった行為は何よりも通常の暴力行為と何ら変わらない。沖縄に対して日本国政府のやっていることは、海保の在り様もそうだが乱暴な国策実践行為としか目に映らない。

 明治の大時代的転回が大正期に爛熟退廃化へ向かうといきなり昭和は軍国への暴走という局面へ雪崩のごとく堰切って流れていく、丁度そういう端境期に芥川は「ぼんやりとした不安」を覚えながら、無力感に蝕まれ、ぼんやりと死ぬ。このぼんやり、は実は激烈な時代批判のようにその後の日本史を占っている。大陸へ、あるいは南方へ、資源のない国大日本帝国は、元々無力な存在でありながら日清日露の戦役に偶々勝利し図に乗っておのれを過信し神州神話に呑み込まれ、大東亜の盟主たらんと陸軍の謀略でっちあげによって中国での戦端を開いてはついに所詮大義なき国家エゴに過ぎない泥沼の殺し合いにわが身を埋没させた。ABCD包囲網で首を絞められ石油禁輸でとどめを刺されては鬼畜米英に対し宣戦布告するしかない。この流れは明らかに破れかぶれの餓鬼のような暴走である。今安倍晋三以下のこの政権がやろうとしていることは、特にこの沖縄でのやり方を見ても、戦前の大本営のやり方に大差ないものを示し始めた。ここにある「暴力的なもの」こそ国家的仮面を被ったぼんやりとした不安を掻き立てる何か禍々しいものに見えて仕方がない。イスラム国の事件はどこかでこういうものに警告を発しているのではないか。事を解決する手段に暴力乃至暴力的なものを選択すると、ブッシュ米国でそうだったように闇雲な戦争主義に陥る。

 沖縄辺野古で識者が指摘する明らかな環境破壊、という暴力は、最早狂った暴れ馬のように手が付けられない状況だ。「ぼんやりした不安」はそういう方向性から醸しだされる「無力な」個人のあるいは市民の素直な感想である。(つづく)