沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 11

2012年10月20日 22時39分16秒 | 政治論
 「人間の国」と小田実が言うとき、彼の実体験に、彼が住した西宮市含め一帯を襲った阪神淡路大震災があり、その時の国(村山連立政権)の被災住民への対処から、直に自身が様々な苦渋を舐めさせられた現実について、この国は「人間の国」ではないという表現でバッサリ斬り捨てなければ、極めて強固に凝固した「非人間的な」戦後日本の、政治的、制度的、管理社会環境によって、多くの「不条理」で「不当な」民衆的苦境に置かれている弱者社会がある、という事実に多くの人がたどり着かない、というふうに使われていたように思われる。
 これはまさに沖縄の現状や東日本大震災被災地にそっくり当てはまるので、恐らくは例えば「復興予算」問題で露呈した「官僚」たちの、倒錯した「非人間的な」機械的管理実態への被災者のこみ上げる怒り、胆汁質こそが、今沖縄、福島、あるいは被災地ひいてはあらゆる弱者被害者にあって封殺してはならない真情としてあり、ここにおいて全てを受け止め峻別し、障害と壁とを突き崩す根拠とする必要があるということになる。
 京大原子炉実験所助教小出裕章氏は「私は政治に全く期待していません」と痛苦を含んだ吐息とともに半ば絶望的に漏らしているが、「政治的絶望」を「無政府主義」と考えるなら、この立ち位置はかつてなくリアリティを持ったものとなっている現状が、確かに目前に広がってきたといえる。
 では「永遠の前に絶望的に手を振る」ような仕儀でギリギリの「限界」を学習することが目的かといえばそうではあるまい。我々自身のうちに掻い込んでいる「鉄格子」は我々自身が作ったのには違いなく、「希望」や「可能性」はむしろどこか我々の知らない所から僥倖のように与えられるのだと思われる。だから原子力研究に理学的論理の粋を究めた「限界見極め」の達人である氏のようには絶望すべきでない。
 とりわけ識者と言われるこの国の知的階層に属する人達においては「自己の限界」を見極めるのは結構だが、民衆の「可能性」に関しては否定的予見を底流に置くものではないように思われる。何故か?民衆は絶望してさえも生きねばならないからだ。
 沖縄県民の前にこの国とアメリカ合衆国がしでかした何十年にも渡る圧制、暴政、犯罪性、を数え上げれば限もなく、目に見えて低劣な仕方で対してきた様々な悪政悪策は本来性を損ないながら、それでもでたらめな内容を彼らは恥ずかしげもなく持続堅持し、空虚で虚しい政治用語の羅列で県民を繰り返し辱め、偽善に満ちた「札びら」振興策で最も下卑た部分において政治を動かしたように欺き通すという、みるから「人間」の所業とは到底合点が行かぬ話になっているのだが、この敵に屈して尻尾を振ったのは民衆に縁もゆかりもないその時々の為政者と決まっていた。しかも民衆は必ずその民意を旗幟鮮明にしてきたのだった。(中断)