沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩366 雑感10 

2012年08月03日 11時03分01秒 | 政治論
 我々の政治的感興interrestというのは、出来した物事に関し引き続きほぼジャーナルに(日常化)文章化しないと、現実生活に埋もれて容易には回復しないものらしい(先日福島東京を10日ほど経巡ってきた)。
 脱原発運動もオスプレイ配備反対行動も、野党の内閣不信任案提出も、かつての自民党王国時代にみられた、決して実現しない「保守停滞主義」的官僚政治打倒の、虚しい叫びを連想させ、主導的政治家を有しない以上烏合の衆と化すしかない政党政治の括りの中、決して希望のないわけでもない民衆的発露を、如何に理論的に効果的に、かつ実現可能な爆薬として活性化するかが鍵なのであろうが、この民主政権に多少は残存するやもしれぬ「歩み寄り」意思を期待する心情は別として、恐らくこの国の政治的主調音たる東大法学部卒超エリート事務屋の宣伝文句に確実に仕込まれている、三島由紀夫の所謂「小さな小さなニヒリスト」根性を打ち砕く、強烈な弾道ミサイルの開発こそ望まれる、ということであろう。
 そうでなければ、この国の「民主化運動」は結果においてオスプレイの実質的殺害予定行為に強権的根拠を与え、死に損となり、自らをアメリカ覇権主義の犠牲、生けにえに供し、更にはまた4度目の放射能汚染犠牲者(広島・長崎原爆・ビキニ環礁水爆実験・福島原発暴発人災)として、過去・現在・未来に渡ってアングロサクソン民族繁栄のため実験用に献体するというわけだ。
 日米安保条約は、米国戦争経済主義による日本国占領行為の行使という意味しかなく(オスプレイの日本全国低空飛行訓練計画をよくみなければならない)、明治維新以来培養し、跋扈することとなった帝国官僚の残党が、戦後日本を誤誘導した多くの失政の結果に過ぎず、彼ら自身自覚しているデスパレートな仕組みであることは火を見るより明らかなことだ。
 ここで問われている「自国防衛」の意思というのは、彼ら為政者の単純すぎる緊急避難的な強迫観念では推し量れない人民的カテゴリーである。中国が外国である以上、外交問題の言及において交渉される事案につき徒らに戦争脅威を煽り、「防共」という偏頗なこじつけ理論を金科玉条として、「再軍備」「核武装」をねらいめに多方面に斥候スパイ工作員を配備し、懐柔籠絡プロパガンダに血道をあげつつ、彼ら自身の既得権益守護と汚名返上、名誉挽回失地回復のため、軍国主義礼賛をわめきたてる連中を、木っ端微塵に打ち砕き追放しなければならない。それが我々「文民」の義務と責任だということは、現今危機回避という意味以上に、将来に至る生命の道をその父母の代に確保させるという意味でもある。
 いずれにしろアメリカに「殺される」まえに殺人機器を破壊すること、それができないなら彼らの手にかかって命を落とすより自ら死すべきものと心得るべきだ。(中断)