敗戦の結果、戦前の道徳観、倫理観が封建的だ、古いと全否定されて、
「滅私奉公」、私を捨てて公に捧げなさいではなくて、
「滅公奉私」、公より、自分が大事ということになった。
「私」が善で、「公(組織、会社、社会、国、、)」は悪だ。
「私」が最優先事項で、「公」である組織や会社や社会は自分がやりたいこと、つまり自己実現を妨げ、「私」を阻害するものと考えた。
だが、
さすがに身近な例では、会社から給料をもらい、「私」の経済生活が安定して自分の利益に直接つながることから、「公」につくすことが悪であるとは考え難い。
身近な生活に縁遠い対象、国のことになると、戦争など悪いことをするので国は悪だ、要らない、国境を無くして地球市民だと主張する人々が多くなった。
国の存在が悪の権化のようにみなし、「自衛隊は『暴力装置』である」と発言した政治家もいた。
「私」である個人が社会をつくり、「公」である社会が個人を育てている、守っている、「公」と「私」は不即不離の関係にある。
「公」につくし、「私」を捧げるのは、戦争であれば、私を捧げるのは死を意味するが、考えてみれば子孫、私のためでもある。
だから、「滅私奉公」=「奉私奉公」
であり、
「滅公奉私」というのは、「公」と「私」の関係から有り得ない。
「滅公奉私」≠「奉私奉公」
である。
考えるのは好きだが、頭は低回転、暑いのでますます頭の動きがのろい、ひとまずここらで(^^;)
【参考】「私」と「公」を漢字で分析
「私」という字の「ム」が「わたし」で、「禾」は「穀物」の意味で、「私」は「わたしの穀物」。
「公」という字の「ハ」は「わかつ」で、「ム」は「わたし」、「公」は「わたしの穀物」を公平に分けることを意味する。
「滅私奉公」、私を捨てて公に捧げなさいではなくて、
「滅公奉私」、公より、自分が大事ということになった。
「私」が善で、「公(組織、会社、社会、国、、)」は悪だ。
「私」が最優先事項で、「公」である組織や会社や社会は自分がやりたいこと、つまり自己実現を妨げ、「私」を阻害するものと考えた。
だが、
さすがに身近な例では、会社から給料をもらい、「私」の経済生活が安定して自分の利益に直接つながることから、「公」につくすことが悪であるとは考え難い。
身近な生活に縁遠い対象、国のことになると、戦争など悪いことをするので国は悪だ、要らない、国境を無くして地球市民だと主張する人々が多くなった。
国の存在が悪の権化のようにみなし、「自衛隊は『暴力装置』である」と発言した政治家もいた。
「私」である個人が社会をつくり、「公」である社会が個人を育てている、守っている、「公」と「私」は不即不離の関係にある。
「公」につくし、「私」を捧げるのは、戦争であれば、私を捧げるのは死を意味するが、考えてみれば子孫、私のためでもある。
だから、「滅私奉公」=「奉私奉公」
であり、
「滅公奉私」というのは、「公」と「私」の関係から有り得ない。
「滅公奉私」≠「奉私奉公」
である。
考えるのは好きだが、頭は低回転、暑いのでますます頭の動きがのろい、ひとまずここらで(^^;)
【参考】「私」と「公」を漢字で分析
「私」という字の「ム」が「わたし」で、「禾」は「穀物」の意味で、「私」は「わたしの穀物」。
「公」という字の「ハ」は「わかつ」で、「ム」は「わたし」、「公」は「わたしの穀物」を公平に分けることを意味する。
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