佐渡に棲んで

退職後の第二の人生を佐渡島で半農半漁の生活でおくり、日々の雑感、釣果の報告などを綴る

棒鱈(干し鱈)作り

2022年01月28日 11時05分03秒 | 日記
昨年、まだ寒い時期に鱈が安かった(メスが¥500)ので

2本買ってきて身を開き中骨をとって年末まで干して置き

棒鱈にしました。

年末に一週間ほど水に浸けて戻して棒鱈煮にしたら

思いのほかうまくいきました。

本来はオスの鱈の大型のものを干すのでしょうが

煮汁の味付けで出来上がりが替わると思いますので

メスでも問題なさそうでした。

先日、漁協の放送があり浜値で一箱2000円とのことで

行ってみました。

メスなら3本入りで一箱、オスメス1本ずつ入って.1箱でした。

オスメスいりを買ってきてオスの白子、メスの真子、肝

中骨、頭はアラ汁にして堪能し、

身は干しました。

年末まで干しておきます。

春先まで時々販売があると思いますので

チョコチョコ買ってきて干して置き年末に

滋賀に住む娘たち送ろうかと思います。

関西ではおせち料理に棒鱈の甘煮を作りますので

その時は私らが驚くほどの高価な干物の棒鱈が

出回ります。





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冷え込み続き

2022年01月20日 14時40分10秒 | 日記
連日、時化と冷え込みが続いています。

時折、吹雪くことはあっても強風で

積もることはなくすぐ消えています。

時に静かに雪が降ることはありますが

水分の多いぼた雪で積もることなく

すぐ道路は水浸しとなっています。

炬燵でのんびりと過ごしています。

昨日、厚生年金の源泉徴収書とJAからの

農業所得と集計用紙が届きました。

先日、企業年金の源泉徴収は届いていますので

確定申告に必要なものはそろったと思います。

来週あたりから集計作業を始めようかと思っています。

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27年

2022年01月17日 12時32分02秒 | 日記
1995年1月17日の阪神淡路大震災から

27年が経ちました。

6434人の尊い命が失われました。

当時、滋賀県の近江八幡に住み大阪市内の勤務先に

通勤していた私には一生消えない記憶として

残っています。

当時、神戸の大学に在籍してグリーンスタジアム横の

学生向けアパートに住んでいた次女は幸い直接被災することもなく

無事でしたが、当時は大変心配しました。

その次女の長女、私にとっては4番目の孫になりますが

一昨日、昨日と大学入試の共通テストを受けました。


年月は経っても大阪市内の勤務先に泊まり込んで

対応に当たり、高層階の窓から見た神戸の夜空に

不気味な火災と黒煙、あの下でどれだけの人たちが

救援を待ちあるいは尊い命を失っているのかと

何とも形容しがたい気持ちでいたことを

忘れません。
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火鉢

2022年01月15日 11時44分51秒 | 日記
ここ数日、冷え込む日が続いています。

昨秋の手術時以後体重が減ったままで

贅肉?が減少している体にとってこの冷え込みは

文字通りじかに骨身に応えます。

例年、冬は大火鉢を取り出して炭火を入れていますが

今年はこたつの横に小物入れの引き出しがついた

もともとはポット置きの茶道具用のワゴンを

置いた関係で火鉢は出していませんでした。

しかしこう冷え込みが続くと恋しくなり

設置しました。

この居間は12.5畳の広さですが建物が旧くなっていますので

軒下などからの隙間風で冷えます。

炬燵と石油ストーブで暖房していますが夜は

ストーブを消しておくと朝は5℃以下になっています。

火鉢を設置して夜は火に灰をかぶせておいても

朝はほんのりと暖気が残っています。

かじかんだ手を炭火にかざしたり温まっている火鉢のへりを

つかんだりして温めていると子供の頃の

囲炉裏の火や火鉢の火に手をかざしたことやらが

懐かしく思い出されて手先だけでなく胸の奥からも

温かくなるような気持になります。
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親孝行

2022年01月11日 17時20分08秒 | 雑感
8日は誕生日でした。

国保の健康保険に入って居ますが保険証が

後期高齢者の保険証に替わりこれまでのカードサイズから

はがきサイズに変わりました。今まで財布に入れていたものが

今度は入らないので扱いにくくなります。


75歳の誕生日というのは私にとって一つの節目になります。

私の父は平成3年に74歳で亡くなりましたが

その時、今は亡き母に約束させられた

「親の生きた年を超えるまで生きる」という

約束を今回の誕生日で一つ果たしたことになります。

平成3年1月29日夜、母からの電話で

能登半島の先端近くに単身赴任している兄が

吐血して救急搬送されたと知らされ現地と

連絡を取って死亡したと知らされ吹雪をついて

車で現地に向かい途中で故郷からの母、兄嫁、妹夫婦と

合流して現地へ行きました。

食道静脈瘤破裂による出血多量が死因でした。

満46歳、短い一生でした。

兄の遺体を引き取り故郷へ帰りあわただしく

葬儀を済ませました。

その前年頃、船揚げ場で足を滑らせて骨折し

回復後も足腰が弱って身動きが不自由になっていた

父は突然の兄の死が相当なショックで極端に食欲もおち

体力の低下は気の毒なほどでした。

兄の葬儀後落ち着いたころ父が腹痛を訴え

入院しました。検査の結果、腸癒着で

手術をしましたが、体力、気力は回復せず7月に

病院で亡くなりました。

入院後はほぼ一週間か2週間ごとに滋賀から

金曜日の夜、高速を走り土日と付き添い

日曜夜に帰宅して出社する繰り返しでした。

その時に母に言われたことは

「一番の親不孝は親より先に逝くこと」と

兄の死後の父の姿を見ていてまさにその通りだと

思いました。

「親の生きた年を超えるように健康に気を付けること」

を、約束させられました。

55歳で早期退職し女房の実家の佐渡での

生活を開始しましたが、56歳で心筋梗塞を発症した時以来禁煙し

59歳で肝炎を発症して以来は禁酒して現在に至っています。

平成20年8月に母は89歳で亡くなりましたが

母の生年を超えるにはあと15年生きなければなりませんが

昨年、胃がんの切除手術を受けましたし

水田の稲作の作業を共同で行っている近所の

人たちは米寿を超えた人たちですので

私も頑張れば何とか母との約束を果たせるかと

思ったりしています。
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