佐渡に棲んで

退職後の第二の人生を佐渡島で半農半漁の生活でおくり、日々の雑感、釣果の報告などを綴る

乾燥機の搬入、据え付け。

2015年01月30日 18時59分38秒 | 農機具
昨日、JAに発注していた穀物乾燥機の

搬入据え付けを行いました。

昨年秋に購入して、設置する納屋の工事などが

全て整ったので搬入してもらいました。

容量は30石タイプでモミを3トン投入することが出来ます。

今までのものの2.5倍の容量です。

高さは3.65mありますので2階まで突き抜けています。

今までは乾燥機がいっぱいになると次の稲が刈ることが

出来ず、効率が悪かったのですが、これで大幅に

秋の稲刈りが効率よくできます。


稲作を辞めて設備を撤去する農家が多い中で

農機具を新調する者はほとんど居ません。


体力の続く限り頑張ってみたいと思っています。

釣竿棚

2015年01月26日 16時52分25秒 | 海・船・釣り
納屋の入り口の内部に釣竿の棚を作って設置しています。

釣りに出かけるときに軽トラやバイクにすぐ積み込めるように

入り口近くに置いています。

今回、納屋の入り口の工事をするために取り除いていましたが

入り口の完成後、復帰させました。


釣竿は船釣りの大物釣り用から岸壁のサビキ釣り

ルアー、ジグ用、エギング用・・・

長短取り混ぜて40本ほど持っていますが

自分の部屋の棚の上や壁に釣りさげたり、立てかけていたり

保管方法はいろいろです。

釣りのシーズンごとに使う竿はほぼ決まっていますので

5~6本を選んでこの棚に置いておけば

準備もすぐ出来ますし戻ってからの片付けも簡単です。


昨年、一昨年は船を出しての沖釣りをしていませんが

今年は何とか都合付けて沖に出てみたいと思っています。




納屋の入り口工事完成

2015年01月23日 07時06分46秒 | 未分類
昨日、昼前に納屋の入り口の工事が完成しました。

3日半の工期でした。

大工さんの仕事を手伝ったのですが日頃の

運動不足とメタボの身体には

脚立に乗ったり下りたり、何度も納屋の2階に

上がったり下りたりの繰り返しで

毎日夕食を済ますとぐったり疲れが出て

風呂に入って早めに布団に入ることの

繰り返しでした。

つくづく体力の衰えを実感しています。

年々の体力の低下を機械を入れたり

作業環境を改善したりすることで

少しでも長く農作業を続けられるようにと

考えています。

冬場に炬燵で過ごさずにウォーキングでもすれば

いいのでしょうが、ついついあったかさに負けて

炬燵から抜けれません。


今日は午前中に相川のJAで農業所得申告の説明会が

開かれますので参加します。

確定申告の時期ですので準備しなければなりません。


並行して乾燥機の搬入も予定します。

納屋の入り口の工事

2015年01月21日 21時13分53秒 | 未分類
納屋の入り口の工事をしています。

昨年の秋の稲の収穫からコンバインを今までの

モミ袋のタイプからオーガ式に替えて

収穫したモミを袋に入れずにコンバインから

軽トラに積んだコンテナに排出して運搬し

コンテナから乾燥機に電動式のホースで投入する

方式に変えましたが、納屋の入り口がコンテナより低いため

昨年は4.5mの長いホースで納屋の外から中の乾燥機に

投入しました。

これだとホースが長くて一人では扱いにくく又

雨だとコンテナの中のモミが濡れてしまいます。


今年は乾燥機の容量も2.5倍にして作業効率を

上げるようにしますが納屋の入り口も高くして

軽トラにコンテナを積んだまま納屋の乾燥機の横まで

入って短いホースでモミを投入することにしました。


近所の大工さんに頼んで工事を進めていて今日で3日目

今まで入り口の上の敷居まで180cmでしたが

25cm上げて205cmにしました。

太い梁や敷居を二人でジャッキアップしてようやくここまで

高くしました。

あとは入り口の戸を高くしたり細かい仕上げが残っています。

入り口が完成したら次は新しい乾燥機の搬入と据え付けです。

今はJAの倉庫で保管されています。

20年、阪神淡路大震災。

2015年01月17日 15時44分01秒 | 追憶
阪神淡路大震災から20年が過ぎました。

各地で追悼の催しが行われているようです。

あの年に誕生した子供たちは成人式を迎えました。


人々の記憶も薄れていきますが

あの日、滋賀県で生活していて体感した揺れの

感覚は決して忘れません。


長時間燃え上がる神戸の夜空を大阪の職場の高層階から

見続けたことは決して瞼の裏から消えません。



当時はまだ携帯電話がそれほど普及していなく

神戸近辺の惨状は政府には伝わらず

社会党の村山政権の下で当日は通常の国会運営が

行われていました。

委員会か何かが開催されていて村山首相にメモが

手渡され、それを見た首相が「犠牲者が出ているようだ」と

言って退席してようやく政府が動き出したようです。


ボランティア元年とかいわれ、ボランティアの受け入れや

活動も形が整ってきました。

その後の大災害にもそのノウハウは生かされていると

思います。

自然災害は決して回避できません。

経験した人々はそれを若い人たちに伝えて

如何に被害を少なくするか?

助かる為にどう行動するか?

震災の日に改めて家族で話し合いことが必要と思います。