阪神淡路大震災から20年が過ぎました。
各地で追悼の催しが行われているようです。
あの年に誕生した子供たちは成人式を迎えました。
人々の記憶も薄れていきますが
あの日、滋賀県で生活していて体感した揺れの
感覚は決して忘れません。
長時間燃え上がる神戸の夜空を大阪の職場の高層階から
見続けたことは決して瞼の裏から消えません。
当時はまだ携帯電話がそれほど普及していなく
神戸近辺の惨状は政府には伝わらず
社会党の村山政権の下で当日は通常の国会運営が
行われていました。
委員会か何かが開催されていて村山首相にメモが
手渡され、それを見た首相が「犠牲者が出ているようだ」と
言って退席してようやく政府が動き出したようです。
ボランティア元年とかいわれ、ボランティアの受け入れや
活動も形が整ってきました。
その後の大災害にもそのノウハウは生かされていると
思います。
自然災害は決して回避できません。
経験した人々はそれを若い人たちに伝えて
如何に被害を少なくするか?
助かる為にどう行動するか?
震災の日に改めて家族で話し合いことが必要と思います。
各地で追悼の催しが行われているようです。
あの年に誕生した子供たちは成人式を迎えました。
人々の記憶も薄れていきますが
あの日、滋賀県で生活していて体感した揺れの
感覚は決して忘れません。
長時間燃え上がる神戸の夜空を大阪の職場の高層階から
見続けたことは決して瞼の裏から消えません。
当時はまだ携帯電話がそれほど普及していなく
神戸近辺の惨状は政府には伝わらず
社会党の村山政権の下で当日は通常の国会運営が
行われていました。
委員会か何かが開催されていて村山首相にメモが
手渡され、それを見た首相が「犠牲者が出ているようだ」と
言って退席してようやく政府が動き出したようです。
ボランティア元年とかいわれ、ボランティアの受け入れや
活動も形が整ってきました。
その後の大災害にもそのノウハウは生かされていると
思います。
自然災害は決して回避できません。
経験した人々はそれを若い人たちに伝えて
如何に被害を少なくするか?
助かる為にどう行動するか?
震災の日に改めて家族で話し合いことが必要と思います。