【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

午前午後

2011-11-20 18:14:01 | Weblog

 アナログ時計の文字盤には、「1」から「12」までの数字が描かれています(数字ではなくて線分のものもありますが、その場合でもその線分を指さしたら「3」とか「7」とか言えるはずです)。で、一番上にあるのはこれは「12」ですね。
 今、「午前1時」だとします。するとそれから1分経ったら「午前1時1分」です。では「午前1時」の1時間前は?  たぶん「午前0時」か「午後12時」です。ではその1分後は? 前者だったら「午前0時1分」、後者だったら「午後12時1分」となるはず。で、その両方ともに私は「問題」を感じます。前者だったら時計の文字盤の数字は「12」ではなくて「0」と書いてなければいけません。後者だったら「すでに午前」なのに「午後12時1分」と表現するのは変です。
 さて、「12」と「1」の間の時間、どう表現するのが“正解”? そして、文字盤の数字は、「1」から「12」でよいのでしょうか?

【ただいま読書中】『奇妙な論理 ──だまされやすさの研究』マーチン・ガードナー 著、 市場泰男 訳、 社会思想社(そしおぶつくす)、1980年、1500円
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 世界は疑似科学に満ちています。永久機関は昔から大人気ですし、かつては反ニュートンも大人気でした(ニュートンを激しく攻撃した有名人としては、たとえばゲーテがいます。今は反アインシュタイン(親ニュートン)の方が人気となっていますが)。そういった擬似科学者の一つの特徴は、偏執狂的傾向です。それは次の5つの形をとります。「自分は天才である」「自分の仲間は無学な愚か者で、自分の敵は不正直で卑しい動機を持っている」「自分が不当に迫害されている」「その時代の最高の権威に挑戦する(さっきのニュートンやアインシュタイン)」「自分で作り出した特殊用語を駆使する」。
 「地球は平板である」「地球は空洞である」からヴェリコフスキーの『衝突する世界』へ。アインシュタインに対する、人格攻撃はたっぷりあるが科学的な根拠はまるっきり、の反論群(たとえば相対性理論を崩すには非ユークリッド幾何学を崩さなければならないことを理解している反アインシュタイン主義者がどのくらいいるのでしょう?)
 ダーウィンの『種の起源』は、プロテスタントの「ファンダメンタリスト(聖書を文字通り信仰する)」と「モダニスト(教養の基礎を近代科学に置く)」との間に深刻な亀裂を生じさせました。ここで笑えるのは、カトリックの方が冷静だった、ということです。著者は「たぶん教会はガリレオについての経験からにがい教訓を学んでいたのだろう」と述べています。もっともそれは教会の“高いレベル”での話で、「カトリックの俗人」はプロテスタントに負けないように熱心に活動をしたそうですが。
 人種差別もまた疑似科学と仲良しです。マルチン・ルターはユダヤ人を迫害するべきと強く主張しましたが、それはまだ「宗教」でした。そこに「北方人種こそが優秀人種である」という「哲学的・科学的な主張」(『ドイツ国民に告ぐ』(フィヒテ、1807年)、『人種の不平等』(ゴビノー、1853年)、『19世紀の基礎』(ヒューストン・スチュアート・チェンバレン、1899年)、そして人類学者のハンス・ギュンター教授の主張)と結合し、ヒトラーの“政策”へと結実します。
 アメリカも事情は似ています。「黒人には魂はない」「魂はあるかもしれないが劣等人種だ」という主張に、宗教と科学がしっかりまぶされていました。たとえば「黒人の脳は平均して白人の脳よりわずかに小さい」という事実がその根拠とされたのですが……著者は「白人の脳は、エスキモー、ポリネシア人、アメリカ・インディアン、日本人の脳より少し小さいし、ネアンデルタール人でさえ現在の白人より大きな脳を持っていたのである!」とわざと驚いて見せています。そういえばIQ検査が「科学」の名のもとに人種差別に有効利用された、はJ・G・グールドがエッセーで書いていましたね。あちらもそろそろ読み直しの時期だな。
 医学も疑似科学の宝庫です。トップバッターはホメオパシー。これの問題点は現時点ではもう語られ尽くした感がありますが、本書出版当時はまだ新鮮な話題だったのでしょうね。あ、問題点がこれだけ見えてもその勢力が強大、というのもまた「問題」の一つかな。自然療法・整骨療法(オステオパシー)も登場します。「オルゴン・エネルギー」も面白い。これ、生命とオルガスムの根源エネルギーなんだそうです。「生」と「性」の結合は、日本語だと自然ですが、ドイツ語ではどうなるんでしょうねえ。
 「疑似科学がどのようなものか」だけではなくて「擬似科学者が共通してみせる性向」に注目している点が面白い本です。科学者は「巨人の肩に乗っている(先人の業績を踏まえている)」人たちと言えますが、擬似科学者は「科学の背中を踏みつけて利益を得ようとする」人たちと言えそうです。だから科学者の中の巨人はまた別の人をその肩に乗せますが、擬似科学者は「自分だけがすべて」。そのへんに注目したら、科学と疑似科学を見分ける一つの手がかりになるかもしれません。



音読み訓読み

2011-11-19 17:56:03 | Weblog

 「昼間」はふつう「ひるま」と読みます。中には「ちゅうかん」と読む人がいるかもしれません。
 「夜間」はふつう「やかん」と読みます。これを「よるま」と読む人は……たぶんいないでしょう。

【ただいま読書中】『ユーリーとソーニャ ──ロシア革命の嵐の中で』アンリ・トロワイヤ 著、 山脇百合子 訳、 太田大八 絵、福音館書店、2007年、1900円(税別)

 モスクワから100kmくらい離れたトヴェーリ県クフシーノブドにあるサモーイロフ家は穏やかで豊かな生活をしていました。11歳のユーリーは、大きくなったら技師になってお父さんの工場を継ぐつもりです。妹のように一緒に育てられているソーニャは、サモーイロフ家の小間使いの娘で、同い年。しかしユーリーには気になることがありました。遠くで行なわれている戦争と、身近でおきつつある社会主義運動。
 それでもクリスマスは楽しい行事です。その直前の「精進(肉を食べない、魚と野菜だけ)」の週間。宗教的なクリスマスの行事の数々。そう、革命前のロシアは、ロシア正教が正統とされる国だったんですね。そして、1917年が始まります。
 臨時政府ができ、ニコライ二世は拘禁されます。工場では労働争議が起き、サモーイロフ家は放火されます。ユーリーの周囲で「世界」ががらがらと“壊れて”いきます。「委員会」の命令で労働者たちが「反革命」の証拠を探しに家宅捜査をします。さらにはユーリーの父親を逮捕。一家に待っているのは過酷な運命であることは明らかです。一家は脱出を決意します。コネと賄賂を使い、なんとか書類と切符を揃えます。まずは一等車でモスクワへ。そこからこんどはウクライナのハリコフへ……家畜運搬車に詰め込まれて。
 当時のウクライナは複雑な情勢でした。赤軍と白軍の内戦に加えて、ウクライナ分離派同士の対立があり、そこにドイツ軍が絡んできます。さらにはスペイン風邪も。その中を列車はのろのろと数週間かけて進むます。その行き先は……ドイツ軍の収容所。
 大人たちは、変われない人と、情勢に合わせて素早い変わり身を見せる人に分けられます。しかし子供たちは「成長」します。ユーリーは「変化」を自身の内部に取り込んで根こそぎ変容していくのです。さらに“味付け”として、幼い性の目覚めもあります。
 やっとのことでたどり着いたハリコフも安住の地ではありませんでした。一家は次にオデッサを目指し、さらにフランスへの亡命を決めます。祖国ロシアとの別離です。しかし船が出港する直前、ユーリーには別の残酷な別れが待っていました。
 著者自身が白系ロシア人として祖国から難民としてフランスに渡った過去を持っています。つまり「ユーリー」は著者自身の姿、と言っても良いでしょう。ですから「ユーリー」が革命下のロシアでの人々の動きを批判的に見るのは当然でしょう。ただ、あからさまな嫌悪とか非難はありません。ユーリーがその「革命」自体をも自分の内部に取り込んでしまったからか、と私は想像します。
 出だしのクリスマスのシーンとその後の一家の運命の対比があまりに強烈です。それを味わいつつ、私は『若草物語』がやはりクリスマスで始まったことも思い出していました。ピューリタンとロシア正教、アメリカとロシア、と道具立ては違いますが、クリスマスの喜びはキリスト教徒にとっては特別なものでしょう。一般日本人にはそのへんのニュアンスの深さや差異がしっかり味わえないのが、残念です。



歴史に残らない

2011-11-18 18:52:58 | Weblog

 『捨てる技術』でしたっけ、とにかく「ものは保存するな、どんどん捨てろ」という主張をする人やその賛同者がたくさんいます。
 で、もしもそういった人が将来歴史に残るような有名人になってその人についての伝記が書かれようとしたり資料館が設立されようとした時に、その人に関する資料は当然全部捨てられてしまっているんですよね。

【ただいま読書中】『アーカイブズが社会を変える ──公文書管理法と情報革命』松岡資明 著、 平凡社(平凡社新書580)、2011年、740円(税別)

 日本では膨大な公文書が“生産”されています。中央官庁だけで毎年100万ファイル。出先機関を入れたら1500万。さらに、独立行政法人や学校法人、地方の自治体があります。しかしそれらがどんな扱いを受けているのかは、たとえば年金記録を見たらわかるでしょう。公文書館も日本では未整備です。もちろん職員も。アメリカの国立公文書館の職員は2500人ですが、日本の国立公文書館は42人。ちなみに、欧米諸国やアジアの国立公文書館の職員で二桁の国はないそうです。すべて三桁以上。欧米ではどこの町にも必ずあるとされる公文書館も、日本の地方自治体で持っているのは55。保存期限の30年を過ぎた文書はさっさと廃棄されています。
 日本では、正倉院文書まで遡る「アーカイブズの歴史」があります。古文書も大量に保存されてきました。ところが明治になって情勢が変ります。記録の保存は軽視され、さらに敗戦での公文書焼却によってその「軽視傾向」に拍車がかかります。
 各地のアーカイブズの紹介があります。その中には、先月読書日記で紹介した「外邦図」のデジタルアーカイブもありました。(10月6日「1日の曜日」での『外邦図 ──帝国日本のアジア地図』(小林茂)) 
 そういった各地の活動で印象的なのは、“妨害勢力”の存在です。金のことしか頭にないコストカッターや、「文化」というものに無理解な野蛮人が権力の座にいると、アーカイブズは簡単に潰されてしまうのです。だけど、金の亡者や野蛮人が人類に対して何をやったのか、は記録に残しておく必要がありますよね。
 問題は山積みです。保管スペース、選別の基準、人材育成、予算、著作権、デジタルデータの保存方法……日本だと「アーカイブズに関する共通理解(それが社会に必要なものだ)」も必要です。だけど……図書館の司書でさえ専門職として認識できず平気で図書館の予算を削る首長がいるわけで(たとえば大阪府)、日本で「アーカイブズは、日本社会や民主主義の基本パーツである。そのためには専門職が必要だ」などとふつうに思われるようになるまでにはまだまだ先は遠いかもしれません。



初球打ち

2011-11-16 18:48:13 | Weblog

 結果がアウトなら「淡白な打撃」と評論家に悪口を言われますが、結果がヒットなら「積極的な打撃」と褒められます。だけど問題は「何球目を打つか」ではなくて「好球を打つかどうか」では?

【ただいま読書中】『また、やっちまった!』野浪まこと 著、 ジュリアン、2011年、1300円(税別)

 「男心がわからない」女性のために、「男が本音で男心について語る本」です。「男だから男心がわかる」のだそうですが、著者にわかるのは「自分」のことではないのかな?なんて思いながらも読んでみましょう。
 男が語る「結婚したい女」とかを気にしている女性がこの世にたくさんいるそうです。しかし、独身男の「結婚したい女像」なんか、まともに取り合うな、と著者は主張します。それはそうですね。離婚を繰り返す人がいる、ということは、結婚を経験してもそこからきちんと学べない人がいるわけで、まして結婚生活を経験したことがない人間が結婚生活について何を語っても、それは妄想の域を出ないのですから。ですから「乙女の勘違い」で「独身男の理想通りの女」を演じても、そこに「理想通りの幸せ」が待っていてくれるとは限りません、というか、待っていない確率の方が高いのです。男のたわごとには一応耳は貸すにしても、それに囚われないことを著者は勧めています。
 「もてない人」がある日突然もてるようになることは、ありません(著者はきっぱり断言します)。そこで著者が勧めるのは「路線変更」。学生だったら進学や転校で「キャラ変更」ができますが社会人だとそれは無理。一つのコミュニティでキャラを固定されたらそれを変更するのは困難です。だったら「コミュニティ」の方を変更してしまえばよい。会社を辞めるのではなくて、会社“以外”のコミュニティへの参加です。それも「自分の良い部分」が出やすいところへ。
 こういった物理的な「フィールド拡張」以外に、「心理的なフィールド拡張」もあります。とにかくいろいろつきあってみて経験を積む。それによって自分の“ストライクゾーン”さらには“得意球のコース”を絞り込む。他人から見たら“悪球”でも、そこが自分の得意コースなら自信を持ってバットを振ればよいのです(“打った”結果がヒットになるかどうかはわかりませんが、少なくとも見逃し三振よりはマシでしょう)。そして、踏ん切りがつかずにグズグズしている男を絡め取ってしまうのです。(男はグズグズするものだからこそ、昔は社会的に「男は結婚して一人前」ということばとか「仲人業」なんて人たちが男の尻に火をつけていたわけです。そういった社会的な動きがなくなってしまったので男の“本性”が目立っているわけ)
 「恋愛市場」で一番“戦闘力”を持っているのは、実は若い女性です。ほとんどの世代の男のターゲットとされていて“経験”も豊富。対して若い男は経験も財力も成熟度も不足しています。見事にアンバランスです。ただ、彼女の髪型の変化にも気がつかない男でも、「上司」に気を使ったりゴマをすることもできます。だったら彼女の方が彼の「(良き)上司」になる、という手もあります。
 「男の浮気性」とか「勝負下着」とか「26歳処女」など、ちゃらちゃらとした口調で「男と女のすれ違い」についていろいろ書いてありますが(そして、その“解決法”がまた軽い口調での一見おふざけのものですが)、その根底にあるのは「もっとコミュニケーションをしろよ」という主張です。男と女が(あるいは、男と男、女と女、も)自分の思い込みの世界にだけ生きるのではなくて、そこから半歩でも踏み出して“相手の世界”にも触れてみようよ、というのが著者の主張でしょう。軽薄な作りにしてある本ですが、中身はきわめて真っ当です。私には楽しめましたが、真っ当なものが真っ当な姿では“売れ”ないというのは、これはこれで困った風潮だなあ、なんて思うのは私がもう古くさい人間になってしまったからかもしれません。



政治家

2011-11-15 18:47:01 | Weblog

 登場するときではなくて、退場するときに熱狂されるか(あるいは退場してしばらく経ってから惜しまれるか)どうかでその価値が評価できる人。

【ただいま読書中】『終わりと始まり』ヴィスワヴァ・シンボルスカ 著、 沼野充義 訳、 未知谷、1997年(2010年3刷)、1400円(税別)

 ポーランドの女性詩人の詩集です。
 ノーベル文学賞受賞記念講演が洒落ています。こう始まります。
「スピーチではいつも最初の一言がいちばん難しいといいます。でも、それはいま済ませてしまいました……。とは言うものの、その次の一言も、3番目のも、6番目のも、難しいという感じがします」
 どうです?
 講演のように、彼女の詩も、平明なことばで、上質なユーモアと深みが感じられることばが紡がれます。たとえば表題作の「終わりと始まり」。
「戦争が終わるたびに/誰かが後片付けをしなければならない/物事がひとりでに/片付いてくれるわけではないのだから
 誰かが瓦礫を道端に/押しやらなければならない/死体をいっぱい積んだ/荷車が通れるように
        ──中略──
 誰かがほうきを持ったまま/いまだに昔のことを思い出す/誰かがもぎ取られなかった首を振り/うなずきながら聞いている/しかし、そのそばではもう/退屈した人たちが/そわそわし始めるだろう
        ──中略──
 それがどういうことだったのか/知っていた人たちは/少ししか知らない人たちに/場所を譲らなければならない そして/少しよりももっと少ししか知らない人たちに/最後にはほとんど何も知らない人たちに
 原因と結果を/覆って茂る草むらに/誰かが寝そべって/穂を嚙みながら/雲に見とれなければならない」
 どうです?
 この世には悲劇と惨劇が満ちています。それは「歴史」だけではなくて「現在の現実」でもあります。著者はポーランド人ですから、そういった「悲劇」は身近なものだったでしょう。しかし著者はそれを声高には言い立てません。告発も攻撃もしません。そして、あきらめもしません。粘り強く「忘れないこと」「目を逸らさないこと」を書き連ねます。それは読者に対する“要求”ではありません。「自分はこう感じる。あなたは、どう?」という呼びかけです。
 もちろん著者は、そういった「大きな世界」についてだけ詩を書くわけではありません。猫や自分より先に死んだ「あなた」といったプライベートなことについても書いています。ところがこれまたすごいの。たとえば「眺めとの別れ」という詩はこう始まります。
「またやって来たからといって/春を恨んだりはしない/例年のように自分の義務を/果たしているからといって/春を責めたりはしない
 わかっている 私がいくら悲しくても/そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと/草の茎が揺れるとしても/それは風に吹かれてのこと」
 ここからものすごく抑制的に、著者の内面に存在する「詩の世界」が読者の目の前に開かれていきます。生命の息吹を讃える春の底に沈む悲しみの世界が。「あなた」が誰なのか、著者がなにを悲しんでいるのか、具体的なことは何も語られません。ただ、そのことばの響きがこちらの心のどこかに共鳴します。静かに長く、共鳴し続けます。
 「ことばの力」が、その“硬さ”ではなくてむしろ“柔らかさ”にあることがよくわかる本です。ただし、単にふにゃふにゃと柔らかいのではありません。その芯には“タフさ”がしっかりと存在しています。私もこのようなことばを使いたい、このようにことばを使いたい、と憧れを感じます。まるで「巨人の星」のように、遠くにあって仰ぎ見るだけの手が届かないものかもしれませんが。

 


アメリカの演歌

2011-11-14 18:59:03 | Weblog

 たまたまつけたラジオで、カントリー&ウエスタンの特集をやっていました。ゆったりした節回しや身近な田舎生活を扱った歌詞の歌を次々聴いていたら、これって日本の演歌に相当するものかも、と思いました。そういえば、映画の「ブルース・ブラザーズ」でも、再結成したR&Bバンドがドサ回りで乗り込んだ田舎の酒場で突然カントリーをやれ、と求められるシーンがありましたっけ。そこでは「ローハイド」のテーマを歌って誤魔化すのですが、今どき鞭を使う生活って、どのくらいアメリカ人に身近なんでしょうねえ。「演歌で描写される世界」が日本の今の生活に身近な程度、かな。

【ただいま読書中】『死の谷の狙撃手』鳴海章 著、 実業之日本社(ジョイノベルス)、2004年、933円(税別)

 内戦中のサラエボには「スナイパー通り」と呼ばれる地域がありました。そこに限らず、街のあちこちに狙撃手が潜んでいましたが、その中にアメリカの特殊部隊〈毒(ポイズン)〉が潜入している、という噂がありました。生理的な抵抗感もなく人を(たとえそれが赤ん坊でも)殺せる兵士の集団です。
 そして21世紀。清原和博が40歳になっても讀賣ジャイアンツでまだ現役生活をしている世界。福島の6基の原発は、故障で運転停止となっていますから、“この日本”とは違った日本のようです。
 ジャンボジェットのハイジャック。そして原発のハイジャック。それは日本に対する同時多発テロでしたが、いずれも致命的なことになる前に“阻止”されます。多数の人命は失われましたが。
 〈毒〉は解散され、各メンバーは世界に散っていました。その一部が日本にもやって来ています。しかしかつてのメンバーの一人「ダンテ」は、人工的な操作で二重人格とされ、ふだんはごく普通のサラリーマンとして生きていました。そのダンテを、北朝鮮の工作員やフランス諜報部が狙います。さらにかつてサラエボでスナイパーをしていた人間も復讐のためにか日本に入ってきます。
 すべての“筋”が合流した先に浮かび上がるのは「スーツケース型核爆弾」。それが日本に持ち込まれようとしていたのです。その目的は? 首謀者は、誰? スナイパーvsカウンタースナイパーの静かで息詰まる対決。それを上空から気化爆弾で襲おうとするジェット戦闘機。
 著者の作品を読むのは久しぶりです。前世紀にはどちらかというと“大人”が活躍しているイメージを私は得ていましたが、本書ではむしろ“若さ”が主人公のように感じました。「息子を見る視線」「娘を見る視線」も登場はしますが、なんだかとってつけたような感じだったのです。CIAからそんなに簡単に足抜けできるのか、とか、人工的な二重人格って“実用的”なのか、とか細かいところは気になりますが、今の日本の政治情勢を皮肉たっぷりに具体的に描くことができるのはこういった冒険小説の特権でしょう。福島原発のことも、いろいろ気になることが書かれていました。できたらこの作品は、発売時に読みたかったな。今はちょっと苦いものに感じられます。ただ、著者が得意な航空サスペンスにスナイパーを絡ませるのは、やっぱりちょっと無理がありました。「空で高速機動」と「地上で静止」とはやっぱり馴染みませんわ。



レシートはないけれど

2011-11-13 17:11:19 | Weblog

 先日ひさしぶりに繁華街に出かけて、駐車券にハンコを押してもらおうとサービスカウンターに向かいました。そこでは2000円以上だったかな、ある程度買い物をしたら駐車場が1時間無料になる、というサービスをしています。で、複数の売場で買い物をしてそのレシートの合計が決められた金額を越えているのでもOK。
 ところがカウンターでトラブルが起きています。レシートの合計が2000円を越えていない人が、ある売場でレシートをくれなかったら合計が届かなかったのだ、と主張しているの。「なんでレシートをもらわなかったのかな?」と思ったら、それをカウンターの職員も聞いています。すると「ここではレシートが出せないけれど、サービスカウンターに行ってそう言ったらわかるようになっているから」とその売場で言われた、とのこと。カウンターではわかっていないようですけれど。
 結局どうなったのかの確認はしませんでしたが、何でも言ってみるもんだな、とは思いました。もしそれが通るのだったら、私も「レシートはないけれど、駐車場をタダにしろ」と言ってみようかな。

【ただいま読書中】『プー横丁にたった家』A・A・ミルン 著、 石井桃子 訳、 岩波少年文庫1012、1958年(97年53刷)、640円(税別)

 本書の前書き(じゃなかった、「ご解消」)は、登場人物の紹介ではなくて、おなじみの登場人物からの「さよなら」です。どうしてそういうことになったかというと、木戸に牛が107匹いたからなのですが……
 登場するのは「おなじみ」ばかりではありません。トラーがやってきますし、チビも登場します。あれ? このチビは『クマのプーさん』の北極(または、ノース・ポール)探検隊で出てきたはず、と思いましたが、違いました。あちらはカブト・ムシノスケでした。
 風が吹いても川が流れても、プーは遊びます。まるでネバーランドの子供のように、毎日が新しく毎日が同じ日です。……しかし、気持ちの良い日に友人たちとのんびり「プー棒投げ」をして一日を楽しく過ごすことができたら……それは「子供の日の幸福」がそのまま形になったもの、と言えそうです。
 ただ、この世界はネバーランドではありません。クリストファー・ロビンは「イスガシ スギカエル」になってしまい、それから「行って」しまいます。なぜそうなるのか、その訳を森の住人たちは知りません。ただ、「クリストファー・ロビンがいってしまう」ことは全員が知っています。「そういうもの」であり世界は「それ」を黙って受け入れます。
 本書の最後の場面で、私は涙が出そうになります。自分がかつてどんな存在で、そこから何を失ってここまで来たか、を思って。ただ、私の心の中には「私のプーさん」がまだ存在しています。それを大切にしながら、これからの人生を生きることはできるでしょう。



グローバル

2011-11-12 19:19:17 | Weblog

 「グローバル」「グローバリズム」などと日本のマスコミはよく言いますが、日本のマスコミ自体は「グローバルな存在」でしたっけ? たとえばその報道は世界でアルジャジーラの報道よりも多く引用されている?

【ただいま読書中】『アルジャジーラとメディアの壁』石田英敏・中山智香子・西谷修・港千尋 著、 岩波書店、2006年、2500円(税別)

 著者の4人はそれぞれ別々の分野の専門で(ただし誰もアラブ・イスラームの専門家ではない)、たまたま「アルジャジーラ」という“接点”で結びついています。
 アルジャジーラは、カタールの首長とその従兄弟(アルジャジーラ創設委員会議長)によって1996年に作られました。首長は「(衛星放送なのだから)カタールから発信するニュースは、国境を越えて話題性の高いものにする」ことを求めました。イギリスBBCのアラビック・サービス・テレビがサウジアラビアとのトラブルで潰れ、その技術者が大量に馘首されましたが、彼らがアルジャジーラ創設の核となりました。アルジャジーラはまずアラブ世界に衝撃を与えました。質の高い「メディア」は西洋だけではない、と。さらに複数の視点を提示する手法も、権力者の提灯持ちのメディアしか存在しなかったアラブ世界では、新鮮でした。そしてアルジャジーラが質的に大きく変化したのは、1998年12月22日、バグダッド爆撃の日です。現場にいた映像メディアはアルジャジーラだけでした。その映像は全世界に流され、そのインパクトはアルジャジーラにも及びます。アルジャジーラが西洋的なメディアになり始めたのです。アフガニスタンでも、現場にいた映像メディアはアルジャジーラだけでした。そして「9・11」。そこで世界の多くの人にアルジャジーラは“認知”されることになります。
 面白いのは、サウジアラビア政府がアルジャジーラを敵視していることです。何しろ“言うこと”を聞きませんから。そこで自分で資本を出してアルジャジーラに対抗するアルアラビア(アル=アラビーヤ)というチャンネルを作っています。アルジャジーラを敵視するのはサウジアラビアだけではありません。アメリカもまたそうです。ファルージャ包囲攻撃の最中、現地にいて放送していたのはアルジャジーラだけで、多数の犠牲者が出ている実態が伝えられましたが、その報道を誤りだと強く非難したのはラムズフェルド国務長官でした。「アメリカ」とはグローバリズムのアイコン、とアメリカ人は思っています。しかしそこにアルジャジーラという「別の基準によるグローバリズム」がぶつけられ、「アメリカ」は無効化(少なくとも価値の切り下げを)されてしまいました。そのためでしょうか、2001年11月にはカブール支局が、03年4月にはバグダッド支局がアメリカ軍に爆撃されています。
 伝統的な価値観を持つムスリムからもアルジャジーラは不評です。何しろ、女性キャスターが政府高官に平気でインタビューをする場面を放送するのですから。あるいは、ディベート番組を放送して「反対意見を言って良いのだ」という姿勢そのものを一般に広めるのですから。(そして「異論を唱えられることを嫌う」権力者からは、アルジャジーラは敵視されます。たとえば独裁者とか、あるいはメディアをコントロールしたいアメリカとか)
 アルジャジーラの“お手本(の一つ)”はBBCです。国家メディアだから非市場的、国家メディアなのに非国家的な公式メディア、というきわどい“生き方”が気に入っているようです。倫理規定では宗教観が慎重に排除されています。もちろんアラビア語放送がイスラムを完全に排除することは不可能でしょうが、アラブ各国の政府がアルジャジーラに不快感を示すことを見ると、少なくともその倫理規定はきちんと生きて機能しているようです。日本にいるカタール大使は「アルジャジーラはわたしたちの誇りです。ときどき頭痛の種ですけれどね」と苦笑するのですが、“スポンサー”であるカタールにとっては、アルジャジーラが存在することがすなわち「自由を重視するカタールという国」の宣伝そのものになっている、という認識のようです。
 アルジャジーラのニュースでは「イラク戦争」ではなくて「(米英軍の)イラク侵攻」、「自爆テロ」ではなくて「自爆攻撃」と表現されるそうです。それがまた「アルジャジーラは“反米”だ」という非難を生むのですが、「マスメディアは“親米”でなければならない」理由はなんでしたっけ? というか、アルジャジーラは「反米」とか「親米」の主張をしているのではなくて、その判断を視聴者に委ねようとしているようです。
 アラビア語メディアというきわめて「ローカル」なメディアが「グローバリズム」を旗印にすることで、アラブ世界に“風穴”を開けました。しかしそれは同時に「グローバルな世界」にも風穴を開けることになりました。なぜなら「グローバル」と言いながらその世界がアラブを無視することで成り立っていた(実はちっとも「グローバル」ではなかった)ことをアルジャジーラが明らかにしてしまったのですから。ここで私は最初の“問い”に戻ります。日本のマスメディアは、ローカルなものなのでしょうか、それともグローバルなもの? 本当はそういった「二分法」から遠いところにアルジャジーラは存在しているようではあるのですが。



読む行為

2011-11-11 18:51:02 | Weblog

 「その人がどんな人かわかる」ツールとして「友人」「食べるもの」、そして「読んでいる本」があります。友人や食べるものについてはわりと直感的に理解できますが、「本」については私は態度を保留します。だって「読んでいる本を見るだけでその人がどんな人かわかる」とは私には思えませんもの。その人が何を読むかだけではなくて、それをどう読むか(たとえば、批判的に読んでいるか無批判に読んでいるか、楽しみで読んでいるか仕事で読んでいるか、など)が分からないとその人についてはわからないのではないかな。

【ただいま読書中】『クマのプーさん』A・A・ミルン 著、 石井桃子 訳、 岩波少年文庫1011、1957年(97年65刷)、640円(税別)

 なつかしい作品です。ただ、再読してその構造の巧妙さに改めて驚きました。親が子供のために子供が持っているヌイグルミが登場する物語を語っているわけですが、そこにはその子自身も登場し、しかもその子が「物語に自分が登場することを知って驚く」のです。もしも私がクリストファー・ロビンだったら、そのシーンだけで狂喜乱舞でしょうね。
 プーさんは「行動の人(クマ)」です。蜂の巣を見つけたらハチミツを取りに行きます。モモンガーの足あとを見つけたらすぐ追跡します。イーヨーの尻尾がなくなっているのを知ったら、すぐに探しに行きます。「でも」とか「もしかしたら」とか「どうせ」とかは言いません。ゾゾを捕まえようと思ったらすぐに落とし穴を掘るし、お腹が空いたらすぐにハチミツを食べに行きます。おかげでコブタは“ゾゾ”に死ぬほど脅かされてしまうのですが。
 イーヨーのお誕生日。プレゼントのためのハチミツの入っていたツボは空っぽになり、風船は割れてしまいます。それでイーヨーは大喜び。子供の時に読んだ時には大笑いでしたが、今はなぜかしみじみと嬉しくなります。なんでこんなに美しいシーンなんだろう。
 本書の様々なエピソードから、何か教訓を引き出すこともできますし、『タオのプーさん』のように何かの原理を説明するためのものとして使うこともできるでしょう。私は「人を慈しむこと」「生活を楽しむこと」を子供が知るためには最適な書だと思います。そして「人生は生きるに値すること」を知るためにも。そして、それは子供だけではなくて、子供の心(のカケラ)を持ち続けている大人にとっても。
 子供の時に本書を読んで好きだった人は、ぜひ再読をしてください。やっぱり面白いですよ。子供の時とは違った面白さも得ることができますよ。



首を賭ける

2011-11-10 17:56:09 | Weblog

 「自分は辞めるから、その前にこれこれの法案を通してくれ」という“取り引き”が、日本だけではなくてギリシアやイタリアなど各国で“流行”しているようです。しかし、自分の「ことば」ではなくて「自分の首」で政策を実行しようとするのは、政治家としてはどうなんでしょう。今回のTPPでも野田首相は「情勢が悪くなったら自分が辞めればいい」くらいに思っているのかもしれませんが、これだと「まつりごと」ではなくて、ただの「人柱」では?

【ただいま読書中】『宇宙においでよ!』野口聡一 著、 講談社、2008年、1400円(税別)

 宇宙飛行士の著者が子供向けに語りかけた本です。
 旅は人の視野を広げてくれます。外国旅行をすれば日本のことがよくわかります。では、宇宙旅行は?
 まずは「宇宙」の定義から……というか、どこまでが「地球」? 一応宇宙空間は「地上100kmより上(外)」と定められているそうです。ということは、成層圏の上、中間圏までは間違いなく「地球」なんですね。その外側が宇宙空間。
 著者が宇宙に旅立ったのは、2005年7月26日、乗ったのはスペースシャトルのディスカバリー号でした。打ち上げから8分28秒で著者は「宇宙」にいました。そして3日目に国際宇宙ステーションにドッキング。出迎えてくれたのは、ロシアとアメリカの宇宙飛行士。そこでは出迎えの「儀式」があります。アメリカ海軍の「誰かが乗船する時にベルを鳴らす習慣」、そしてロシアは「パンと塩」。このロシア人宇宙飛行士セルゲイ・クリカリョフは、この時が6回目の宇宙飛行(4回目の長期滞在、国際宇宙ステーションでは2回目)のベテランで、この飛行が終わると合計宇宙滞在803日という世界記録を作ることになるのです。ロシアの「ミール」にいたときには、宇宙にいるうちに母国がソ連からロシアに変ってしまった、という経験も持っています。しかしこれだけ滞在していたら、被曝量はどのくらいなんでしょうねえ……って、調べたらわかりますね。1日で1ミリシーベルトだそうです。
 著者が感銘を受けたのは「広さ」です。スペースシャトルでの生活空間はミッドデッキの6畳間くらいの部屋で、そこで7人が生活します。ところが宇宙ステーションでは、人の居住空間は大型バス二台分くらい。「とっても広い」そうです。
 NASAが用意している宇宙食は約200種類。ロシアは100種類くらいの宇宙食があります。そして次々“新製品”が開発されています。著者が宇宙に始めて持ち込んだのは「ラーメン」。日清食品の特注品です。カップヌードルのオリジナル味に加えて、みそ味・カレー味・とんこつ味も開発されたそうです。カレーライスもあります。これは毛利衛さんが始めて持ち込みました。著者もカレーを持って行きましたが、それは「SMAP×SMAP」のビストロスマップで著者のオーダーに合わせて作られたインド風カレー。食べてみたいなあ。もちろん、宇宙で。
 なお、宇宙ステーションでは食事の時には皆でテーブルを囲むそうです。
 トイレの構造や使い方も具体的に書かれています。ただ、トイレは一つしかないので、無神経な人が宇宙に出たらとても迷惑かも。
 遊びの話もあります。歴代の宇宙飛行士たちもいろいろな遊びをして見せましたが、著者がやったのは、あやとりと電子ピアノの演奏。ところがこれがけっこう難しい。あやとりでは手を近づけるとヒモがふわふわと逃げ出すし、ピアノは鍵盤を押すと体が浮き上がる。無重力(微少重力)というのは、なかなか大変な環境です。
 そして、船外活動。窓から見る宇宙空間や地球は感動的です。でもそれらはあくまで、窓枠の中の「景色」。ところ船外活動では、著者と地球は「宇宙という同じ空間に浮かぶもの同士」になるのです。
 著者の“履歴”も面白いものです。「宇宙への憧れ」はベースにずっと持ち続けていますが、「その時自分ができること」「その時自分がやりたいこと」も大切にして、浪人・東大(原動機コース)・石川播磨重工業の航空エンジン部門に就職、と「自分の人生」を生きています。そして社会人2年目の1992年、JALのエンジニアの若田光一さんが日本で4人目の宇宙飛行士に、というニュース。著者の血が騒ぎます。95年に宇宙飛行士の募集。過去最高の572人の応募の中には本当に優秀な人がごろごろしていました。著者は肩の力を抜いて「将来の宇宙飛行士と友達になれるかも」といった感覚で受験をします。そして……
 著者は宇宙飛行士に必要な条件は3つ、と言います。「冷静」「全体像を掴む能力」「細かいことにくよくよしない」。あとは、(現時点では)英語の能力も重要ですね。
 試験や訓練の具体的な内容は興味深いことが列挙されています。著者が宇宙に旅立つ一つ前のシャトル、コロンビア号の事故では著者たちの心は激しく揺さぶられます。そしてそれは、読者の心にも“共振”を与えます。宇宙飛行は、科学ミッションですが、同時に、心をもつ生身の人間の営みでもあるのです。私が宇宙飛行士にこれからなれる可能性は限りなくゼロに近いはずで、宇宙への観光旅行ができる可能性もゼロに近いでしょうが、それでも私の視線は宇宙へも向けておきたい、と思います。たとえ想像の目にしても、宇宙から地球を眺めていたいですもの。