【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

最終決定権

2011-11-28 18:38:09 | Weblog

 会議などでいろいろ嫌になることがあります。「なんでそんなことにこだわるんだよ」と言いたくなる細かいところにねちねちイチャモンをつける人が登場すると、会議は膠着してしまいます。で、思ったのですが、どうしても膠着してしまったときに、「もしこの決定でまずいことになった時に、“被害者”が会社相手に訴訟を起こしたら訴えられる立場の人」に最終決定をしてもらう、というのはどうでしょう。それだったら、「自分は安全地帯にいる(訴えられる心配がない)」人がそれを良いことに好き放題言っても無視できますよね。そして、決定した人がそれが原因で訴えられても、それは自分の決定のせいだから、あきらめることができますよね。

【ただいま読書中】『事故はこうして始まった! ──ヒューマンエラーの恐怖──』S・ケイシー 著、 赤松幹之 訳、 1995年、化学同人、

 致命的な事故あるいは大事故が起きた時「責任者」探しが行なわれます。そして「最後に間違えたボタンを押した人」が多くの場合責任者とされます。しかし……
 1971年6月、サリュート宇宙ステーションから地球に帰還途中のソユーズ宇宙船で事故が起きました。ハッチに組み込まれた圧力平衡バルブ(大気圏内でカプセル内部と大気圏の圧力のバランスを取るためのバルブ)が真空に向かって開いてしまったのです。そのままではカプセル内部は真空になってしまいます。その場合には、ハッチ中央の小さなハンドルを指で捻って回せばバルブは閉じます。しかし宇宙飛行士はその閉鎖に失敗し、三人の宇宙飛行士は死亡しました。さて、ここでの「責任者」は誰でしょう? 実はバルブを閉めるためには、指でハンドルを捻る動作を1秒に2回、それを2分間くらい続けなければ完全閉鎖ができない設計になっていました。しかしバルブが開いてしまったら、カプセル内の空気は数十秒以内になくなってしまいます。つまり、「実際に使われる状況」にふさわしい設計ではなかったのです。
 癌のための放射線治療器で間違えて致死的な量の放射線が照射された、という事故がアメリカでありました。この時には、間違えたコマンドを放射線技師が打ち込んでしまい、それに気づいて訂正をしたらその“訂正手順”がメーカーの想定外だったため機械の内部で混乱が起きしかもその混乱が技師にフィードバックされず、結果として患者がチェレンコフ光を見るくらいの放射線が照射されてしまったのでした。
 本書では「原因追究」とか「責任者の追及」とかではなくて「なぜこのような事故が起きたのか、を物語形式で語る」という手法が採られています。つまり「私」がその場にいたとしたら、とリアルに想像できるわけです。株の売買で「1100万ドル」と「1100万株」の入力ミスでニューヨーク株式市場が大暴落、なんて話は、ですから“他人事”ではありません。入力ミスなんて、私も日常的にやってますからねえ。「バケツでウラン」のアメリカ版も登場します(本書では「米国史上最悪の原子炉事故」とされていますが、1961年SLー1実験原子炉で暴走(臨界と爆発)事故です)。これまた、自分がその場にいたら同じことをやっていそうなのです。
 ということで、事故の原因究明は必要です。「責任者」に「責任」を押しつけるためではなくて、事故の再発防止のために。もちろん「どうしてそんな間違え方をするんだよ」ととんでもない発想で行動する人間にはその責任を取ってもらう必要がありますが、「普通の人間=完全無欠ではなくふつうにミスをする人間」に対して「ミスをしないことが前提のシステム」を与えてはいけないのです。「気をつけろ」とか「頑張れ」で済まそうとするのは、単なる手抜きの対応でしかないし、そういった「システム」で事故が起きたら、その“責任”はシステムの側にあります。少なくともそう考えるのが人間工学の考え方ですが、実は日本ではそういった考え方はあまり人気がありません(少なくともマスコミや司法の場では)。「個人が超人的な頑張りでシステムを支えなければならない」というのはずいぶん貧しくて寂しい状況に私には思えるんですけどね。だって「超人」なんてその辺に転がっていないでしょ?