安斎育郎さんって(立命館大学名誉教授)こんなすごい人だったのかと、今日の「赤旗」知りました。
シリーズ 原発の深層の第3部「差別の抑圧越えて」の5回目です。
私も松戸の工場で組合結成に加わった時に、北海道で就職面接を担当した会社の人間が「ご両親を泣かすな」とか、工場の責任者が「小林多喜二知ってるか、共産党なんだ」など組合脱退工作を受けたことを思い出しました。
もっとも、当時は小林多喜二を知らなかったのですが。
「赤旗」より
放射能の専門家としてテレビでもよく知られている安斎育郎・立命館大学名誉教授(71)。 国の原子力政策を批判し、東京大学医学部の放射線健康管理学教室に勤めていた1969年から86年まで助手にとどめられたことがあります。
後に週刊誌が「東大助手『ガラスの檻(おり)』に幽閉17年」と報じたほどです。
「出勤しても誰も□を利かない。教育業務からも外される。主任教授から、研究発表も許可なしにしてはいけないと言われました」
災害防止研究
安斎さんは62年、東大工学部に全国に先駆けて設立された原子力工学科の第1期生となりました。国が原発推進の技術者を養成するための学科でした。同期には、石田寛人元科学技術庁事務次官らがいます。
安斎さんは「原子力がモノになるかは、放射能を管理できるかにかかっている」と、放射線防護学を専攻。卒業論文は「原子炉施設の災害防止に関する研究」でした。しかし、次第に国の原発政策が住民の安全を守るものになっていないと感じるようになります。
66年には、科学の自主的・民主的・総合的発展を目指す日本科学者会議に入会し、国の原子力政策への批判を展開しました。
72年の日本学術会議の第1回原発シンポでは基調講演。国の原発政策について▽経済優先の開発か安全確保優先の開発か▽軍事利用への歯止めが保障されているかなど「6項目の点検基準」を提起し、国に落第点を与えたのです。
翌73年には国会で意見を陳述。9月には福島第2原発の設置をめぐる公聴会で、原発の安全性に疑問をもつ住民の声を代弁し、建設反対を主張しました。
″安斎番″尾行
大学での人権侵害はそうした活動を抑え込むための攻撃でした。
「講演に行けば電力会社の。”安斎番”が尾行につく。内容は録音して届けられ、翌日には主任教授から『昨日、こんな話をしただろう』となじられる」東電から派遣された隣席の産業医は、辞めるとき、「僕の役割は安斎さんが次に何をやろうとしているかを偵察する係でした」と打ち明けました。
東電が「費用は全部保証するから3年ばかりアメリカに留学してくれないか」と懐柔しようとしたこともありました。
安斎さんは、「研究費がなくても研究はできる」と励み、専門学会では70年代半ばに三役の一人も務めるなど活発に活動しました。
「日常的に不快な体験をさせて『改心』や『屈服』を迫るやり方は、自由な批判精神の上に安全性を一歩一歩培っていく技術開発の思想とは対極のもの。自由にモノを言わせないこの国の原発開発が安全なはずがないと肌で感じました」
(つづく)
シリーズ 原発の深層の第3部「差別の抑圧越えて」の5回目です。
私も松戸の工場で組合結成に加わった時に、北海道で就職面接を担当した会社の人間が「ご両親を泣かすな」とか、工場の責任者が「小林多喜二知ってるか、共産党なんだ」など組合脱退工作を受けたことを思い出しました。
もっとも、当時は小林多喜二を知らなかったのですが。
「赤旗」より
放射能の専門家としてテレビでもよく知られている安斎育郎・立命館大学名誉教授(71)。 国の原子力政策を批判し、東京大学医学部の放射線健康管理学教室に勤めていた1969年から86年まで助手にとどめられたことがあります。
後に週刊誌が「東大助手『ガラスの檻(おり)』に幽閉17年」と報じたほどです。
「出勤しても誰も□を利かない。教育業務からも外される。主任教授から、研究発表も許可なしにしてはいけないと言われました」
災害防止研究
安斎さんは62年、東大工学部に全国に先駆けて設立された原子力工学科の第1期生となりました。国が原発推進の技術者を養成するための学科でした。同期には、石田寛人元科学技術庁事務次官らがいます。
安斎さんは「原子力がモノになるかは、放射能を管理できるかにかかっている」と、放射線防護学を専攻。卒業論文は「原子炉施設の災害防止に関する研究」でした。しかし、次第に国の原発政策が住民の安全を守るものになっていないと感じるようになります。
66年には、科学の自主的・民主的・総合的発展を目指す日本科学者会議に入会し、国の原子力政策への批判を展開しました。
72年の日本学術会議の第1回原発シンポでは基調講演。国の原発政策について▽経済優先の開発か安全確保優先の開発か▽軍事利用への歯止めが保障されているかなど「6項目の点検基準」を提起し、国に落第点を与えたのです。
翌73年には国会で意見を陳述。9月には福島第2原発の設置をめぐる公聴会で、原発の安全性に疑問をもつ住民の声を代弁し、建設反対を主張しました。
″安斎番″尾行
大学での人権侵害はそうした活動を抑え込むための攻撃でした。
「講演に行けば電力会社の。”安斎番”が尾行につく。内容は録音して届けられ、翌日には主任教授から『昨日、こんな話をしただろう』となじられる」東電から派遣された隣席の産業医は、辞めるとき、「僕の役割は安斎さんが次に何をやろうとしているかを偵察する係でした」と打ち明けました。
東電が「費用は全部保証するから3年ばかりアメリカに留学してくれないか」と懐柔しようとしたこともありました。
安斎さんは、「研究費がなくても研究はできる」と励み、専門学会では70年代半ばに三役の一人も務めるなど活発に活動しました。
「日常的に不快な体験をさせて『改心』や『屈服』を迫るやり方は、自由な批判精神の上に安全性を一歩一歩培っていく技術開発の思想とは対極のもの。自由にモノを言わせないこの国の原発開発が安全なはずがないと肌で感じました」
(つづく)
安斎育郎さんが、他の大学に移ればよかったかどうかは、分かりませんが、様々な圧力・誘惑に負けなかった生き方に共感します。
また、そうした、一人の生き方が、伝えられ世の中を変えていく力になるのではないかと思っているのです。
もちろん、安斎教授が何故に長期間、研究発表もままならぬポストにあえてとどまったのか真相はわかりませんが、そもそも帝国大学は国家(国民、との対立概念です)に奉仕する人材を育成するために作られたのですから、その体制に合わない者が排除されるのは当然のことです。体制内改革を望まれたのかもしれず、他の理由かもしれませんが、国家統治機構の一部である日本の帝国大学が、欧米の自治の裏付けある「大学」と同じと考えることに、根本的な誤りがあり、早く他大学に移れば原発の危険性の主張はもっと早く国民のもとに届き、それは事故を未然に防ぐ力になり得たかもしれません。