JCP市原時夫です

千葉県房総の睦沢町から、政治・経済・歴史・オペラ・うたごえを考えるgabuku@m12.alpha-net.ne.jp

鶴見俊輔氏の人柄の一端を知る。「赤旗」記者の取材

2015年09月28日 | Weblog
 日本共産党とは、距離があった、鶴見俊輔氏を「赤旗」記者として、1998年に初取材した、北村隆志氏の取材エピソードです。
 平和が脅かされている現状に、明治以前にさかのぼって戦争勢力とたたかえというような内容だったと思いますが、「赤旗」に書かれおり、私の問題意識が影響を受けた方です。




鶴見俊輔さんに聞
いたこと
赤旗日曜版記者北村隆志
 「九条の会」呼びかけ人の一人で哲学者・評論家の鶴見俊輔さんが、七月二十日、死去されました(日本共産党創立と同年の一九二二年生まれ、享年九十三歳)。鶴見さんに度々インタビューした経験をもつ北村隆志・赤旗記者(現・日曜版)に、一文を書いてもらいました。   (編集部)
 鶴見俊輔さんに初めて会ったのは、一九九八年六月十一日でした。私か赤旗文化部記者になって三年目でした。
 鶴見さんは、日本共産党を「北斗七星」に例えた(『現代日本の思想』岩波新書、一九五八年)ことで有名でしたが、日本共産党の機関紙誌に出たことはそれまで全くなかったと思います。当時、まだ若くて怖いもの知らずたった私は、ぜひ一度鶴見さんに会いたいと、手紙でインタビューを申し込みました。
 すると数日後、はがきで「おたよりありがとう。六月一一日(木)午後二時でいかがでしょう。よろしければ、自宅でお待ちします」と返事が来ました。はがきが届いたのが五月三十一日。丁寧に道順も書いてありました。私は非常に緊張しました。
 京都市北部にある鶴見さんのお宅を訪ねると、満面の笑みで出迎えてくれました。話しながら、よく「ワッハッハ」と大笑いされました。後でわかりますが、それは鶴見さんの十八番でした。プラグマティズムの哲学者として、あるいは、「ベトナムに平和を!・市民連合」のリーダーとして、日本共産党とは一線を画す人のように思われていたことが、ウソのようでした。
 周辺事態法が問題になるなかで その時は、九七年の「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)から、それを具体化する周辺事態法づくりが問題になっていました。自衛隊の海外派兵に道を開くこの動きに鶴見さんは強く反対していました。この時のインタビューを見ると、その言葉はいまの安倍政権のやり方にそのままあてはまります。
 「新ガイドラインでは、『周辺事態』がおきれば日本が米軍を応援することになっています。ごの『周辺事態』を政府は地理的概念じゃないといいますが、定義をきちんと決めないから、いくらでも定義を動かせるわけです。
 そのやり方は、昭和の初めの『非常時』ととてもよく似ているんですよ。論理としては『異種同型』ですね。どちらも国家権力の起こした既成事実には従ってくれということなんです。(中略)       ‘
 今度の『周辺事態』で追認するのは、アメリカの判断です。アメリカのいうとおりにしろということですよ。その隠れた真意をオブラートに包んで隠している」(「しんぶん赤旗」九八年六月十八日付)
 「新ガイドライン」を「戦争法案」に、「周辺事態」を「存立危機事態」に置き換えれば、今にそのまま通じるのは驚くばかりです。いつまでも古びないスパンの長さは、事の本質を「異種同型」と見抜いた、鶴見さんの洞察力のたまものでしょう。と同時に、日本の政府は、「戦争する国づくり」を国民にごまかすため、何度も同じ手口を繰り返しているのです。
 この時、日本共産党が「戦争に反対し続けた」ことにふれ、鶴見さんは、「昔の話だ、意味はないという人もいるけど、私はその重さはいまも失われていないと思います」、「戦争の記憶を忘れることはできないし、共産党が戦争に反対した意味も忘れることはできません。それはマルクス主義に同調するかどうかとは別のことです」と語りました(同前)。
宮本顕治さんとの座談会--後日談19510 1
宮本顕治元議長について「戦争中、監獄の中でずっと座っていた。完全な脱帽だ」と、鶴見さんは、敬意を込めて語りました。そして、次のような戦後のエピソードも教えてくれました。
 戦後、雑誌の座談会で一度、宮本さんと一緒になった。そのとき自分は、「中間層」意識を広めて国民意識を眠り込ませるマスコミの否定的影響を強調したが、彼は、「現実のおかれている矛盾から(中間層意識に)なめしきれない大きな要素が出てきている」と、現実の矛盾や、労働組合などのたたかいの経験から目覚めてくることを重視する考えだった。
 それから十数年後、たまたまあるパーティーで一緒になり、同じエレベーターに乗り合わせた。すると、マスコミについて議論したことを覚えていて、「あの時は失礼しました。先覚者に最敬礼」と、額に手を当てて、敬礼する真似をした。後になって、自分の考えの至らなさをそういう形で認めてくれた。
 この座談会は、『中央公論』五七年三月臨時増刊に載った、鶴見、宮本、久野収の三人の鼎談のことでしょう。『宮本顕治対談集』(一九七二年、新日本出版
社)に収められており、マスーコミュニケーションの働きについて、鶴見さんが教えてくれたような議論になっています。この座談会に、実は後日談があったということを、面白く聞きました。
「選挙ごとに共産党に投票」
 それ以来、鶴見さんのお宅にはインタビューで四、五回お邪魔しました。
 二〇〇一年に、党創立記念日特集のために話を聞いたときは、戦後、「五十六年間、選挙ごとに共産党に投票してきました」と打ち明けてくれました。「共産党から批判されてそれが不当だと思っても、別の党に入れるということはなかった」というくらい、。筋金入りでした。
 「この七十九年、日本共産党は日本を戦争に向けて引っ張ったことはありません。その過去の努力を忘れることはできません。今のさまざまの政党のなかで偉
大なものと思います。
 その道を全うしてほしい。それが同い年の私の期待です」(「しんぶん赤旗」○一年七月十四日付)
同時多発テロと「法による裁き」
 ○一年の九月十一日にアメリカで同時多発テロが起きた直後にも、話を聞きました。日本共産党が各国首脳宛に出した書簡「テロ根絶のためには、軍事力による報復でなく、法にもとづく裁きを」に「全面的に賛成です」と表明し、次のように語っていました。
 「今度のテロはミレニアム(千年紀)最初の大きな犯罪です。まさに人類にミレニアムの問題を突きつけていると思います。
 『法による裁き』は最古の文明以来、五千年掲げてきた人類の理想です。その理想が裏切られ続けてきたことは事実ですが、だからといって理想を投げ捨てるわけにはいかない。報復戦争は人類をもとのレベルに戻すものです」(「しんぶん赤旗」○一年九月三十日付)
 ミレニアム単位で考えるとは、鶴見さんならではのスケールの大きさでした。これが鶴見さんにとっては、九・一一後の最初のインタビューだったそうで、「私のところに赤旗が最初にきた」と、あとあとまでも評価してくれました。
渾地久枝さん、山室英男さんとの対談
 ○二年の「赤旗」新年企画「新春トーク戦争って平和って」(二〇〇二年一月三日付)では、作家の澤地久枝さんと対談してもらいました。鶴見さんの市民運動仲間に、食いしん坊が高じて料亭を始めた人がおり、○一年年末に、京都市内のその店で対談が行われました。
 のちに「九条の会」の呼びかけ人になるお二人の対談は、豊富な話題に息もぴったりで、まとめるのも楽しかったです。対談の後の食事も、四角いタケノコに驚かされるなど、目も舌も楽しませるもので、この料亭をひいきにしている鶴見さんの趣味の良さを感じました。
 ほかに○二年十一月には、私の担当ではなかったですが、元NHK解説委員長の山室英男さんとの対談を紙面で七回連載しました。
「赤旗」学問文化欄に寄稿七回 鶴見さんは「しんぶん赤旗」学問文化欄に寄稿もしてくれ、それは七回でした。
 とくに二〇〇〇年八月十一日付のエッセー「夏によせて」には、鶴見さんの考えのエッセンスが詰まっています。共産党の戦争反対のたたかいは「同時代を生きる私の記憶にきざまれている」と書いたあとに、後半で二つのことを書いています。
 一つは、「学生のころ私は哲学科にいたので、思想大系の形に心をうばわれた。見事な形がある」。しかし、戦争に直面して「どの大系をえらぶかなどという問題は、私の哲学の外に追い出された。(中略)戦争をしたくない。その課題にこたえるために、何か今必要か。どういう思想が」と書いています。
 ここで、鶴見さんは理論の純粋さや精密さよりも、あいまいだが素朴な感情を大切にしたいと言っています。つきつめれば「人を殺したくない」という感情でした。歴史を見れば、思想や理想のためだといって、戦争やテロが繰り返されてきました。どんな高まいな思想でも、そのために人を殺さず、殺さない道を考えようというのが、戦争に直面するなかで鶴見さんが心に刻んだことでした。
 もう一つは、「陣営意識をもたない」ことです。日米安保条約賛成の人であれ、反対の人であれ、戦争を食い止めるために動く人に注目したいと書いていま
す。論敵とも仲良く付き合う、鶴見さんの交友範囲の広さはここからきていました。 この考えは、いまいっそう大事です。それはれっきとした自民党政治家だった翁長雄志さんが、米軍新基地建設反対のオール沖縄の知事になっていることを見てもわかります。戦争法案反対のたたかい、憲法九条を守るたたかいの今後も、従来の陣営関係を超えた共闘のいかんにかかっています。
「九条の会」を呼びかけ 二〇〇四年六月、鶴見さんは九人の呼びかけ人の一
人として、「九条の会」を呼びかけました。「九条の会」はその後、燎原の火のように広がり、国民世論を変えるまでになりました。鶴見さんの果たした役割の大きさは、ここではとても書ききれないほどです。
 私か鶴見さんに最後に会ったのは○六年七月十三日でした。関西出張のついでにお宅を訪ねました。鶴見さんが、自宅で購読していた「赤旗」の演劇評を見
て、東京まで前進座の芝居を見に行ったというので驚きました。「劇評、映画評、それから漫画がいい」と言って、「ワッハッハ」と得意の呵呵大笑いをされました。
「漫画は軽々に見るべきじやない」 『いまは政治漫画も四コマ漫画もいい。多分『赤旗』の歴史でいまが一番いいんじゃないか。
 漫画は、共産主義にとって軽々に見るべきじゃない。私は、丘(産党政権ができると漫画はどうかといつも聞くんですよ。ソビエトでは漫画はよくなかった。
チェコには漫画の伝統は残っていた。シュベイク人形も。やっぱりチェコが最初に変わっていった」
 鶴見さんが言いたかったのは、共産党政権がもし万が一、かつてのソ連のように道をはずれても、漫画を面白がる精神があれば、正しい道に戻る力になるということだったと思います。
 「イギリスは十五世紀ぐらいからずっと、王制に関する風刺漫画がある。それがイギリス王制を存続させた一方で、イギリスでファシズムを起こさなかった原因だと思う。漫画が描くような普通のイギリス人の考えと、政治がつながっているところが、イギリスの面白さだと思う。
 そのつながりが、漫画が始まって以来千年、日本にもある。『万歳とあげて行った手を大陸において来た』(鶴彬)なんてすごいでしよ。江戸時代の『役人の子
はにぎにぎをすぐ覚え』なんて、漫画ですよ。日本のそういう伝統を生かさない手はない。共産党はいつも悲惨を強調するけど、フモール(ユーモア)の線がない。例えば『阿Q正伝』(魯迅)は悲惨だけじゃなくて、こっけいな話ですよ」「あなたは何者?」「自分は何者?」もう一つ、鶴見さんは、you are wrong ! (あなたは間違っている)」と批判するだけでなく、「What are you?](あなたは何者?ごと問うことが必要だと話しました。それが、テロ勢力との戦争を始めたブッシュ大統領にはないし、共産党にも必要ではないかと。さらにいえば「Wat am I?](私は何者?)」と問うことが大事だと話していました。
 「共産党が、この前の戦争のように、自分たちがつぶれても戦争に反対するという姿勢を守れば、それだけで私は支持します。だけど、本当に戦争を阻止する幅広いベースが作れれば、もっといいと思う。九条の会はそのベースになりうる」 これが、私か鶴見さんから聞いた最後のメッセージです。残念ながらその後は、半ば忙しさに紛れて、半ば鶴見さんの体調のために、お会いできませんでした。
 「しんぶん赤旗」日曜版で、加藤周一さんの追悼文を書いてもらったのが、最後にいただいた原稿でした。(○八年十二月十四日号)いま鶴見俊輔さんがもし元気だったら、国会前行動に来て、「憲法守れ」と学生だちと一緒に叫んだことでしょう。
                (きたむら たかし)