JCP市原時夫です

千葉県房総の睦沢町から、政治・経済・歴史・オペラ・うたごえを考えるgabuku@m12.alpha-net.ne.jp

茂原革新懇がニュース108号  満蒙開拓団の真実

2012年09月01日 | Weblog
 茂原革新懇ニュースが発行されました。1名の内容を転載します。
 
 昨年九月、茂原革新懇が呼びかけ、実行委員会を組織して上映した「嗚呼満蒙開拓団」は多くの方々に鑑賞していただきましたが、その中には実際に満蒙開拓団に参加された方が何人もいらっしやいました。
 また、NHKが今年の一月、四回にわたって満蒙開拓団をテーマにしたドラマを放送しました。あらためて、開拓団の方々の悲惨な体験を知ることができました。
 映画を観て、アンケートを寄せていただいた方々を訪問し、短時間ではありましたが、その体験談をお聞きすることができました。詳しくは、茂原九条の会主催の「戦争体験を語り継ぐ」でお聞き頂くとして、何人かの方々の体験を紹介したいと思います。
一家十一人でただ一人生存 茂原市に在住のMさんは、現在の長野県南木曾町から三百戸が分村していった開拓団の一員として一家をあげて、昭和十四年 (一九三九年)十月に満州に渡りました。
 その時の家族構成は、祖父と両親、八人の子どもで、Mさんは当時十四歳で長男でした。その後、父親は病気で亡くなり、Mさんは昭和二十年五月に二十歳になり、牡丹江で入隊し、部隊は南に移動しました。Mさんはこうして家族と別れ別れになったのですが、その後、八月九日にソ連が攻めてくる中で、家族は全滅しました。Mさんはその後、シベリアに送られ、鉱山で働かされたり、飛行機の部品の製造をさせられたりして、昭和二十三年にやっと帰国できたということです。
 十人家族が姉と二人だけに 白子町に在住のTさんは昭和十四年、親兄弟家族十人で、現在の長野県蓼科町から満州へ渡りました。当時Tさんは五歳でした。
 昭和二十年八月九日、「ソ連が侵攻して来るから」との連絡で馬車にわずかばかりの衣類と食料を積み込み、その日の夕方から逃避行が始まりました。数日だつと食料はなくなり、足は棒のようになりました。次の村に行けば軍がいて私たちをまもってくれる」という言葉が希望でしたが、どこに行っても軍にあうことはありませんでした。
 こうした移動の中で、二人の弟、そして妹が亡くなりました。九月にハルビンに到着し、そこから新京、奉天と無蓋貨車に詰め込まれて移動しましたが、そのわずか三、四ヶ月の間に、父、二番目の姉、母、弟と兄が疲労や栄養失調で相次いで亡くなりTさんはわずか十二歳でたったひとり取り残されました。一番上の姉は結婚して音信普通でしたが、昭和二十二年にやっと連絡が取れました。
両親亡くしただ一人帰国
 茂原市在住のKさんは、満蒙開拓団ではありませんが、ソ連が参戦する混乱の中で、やはり両親を亡くし、そのお骨をやっとの思いで持ち帰られたということです。Kさんの両親は、ソ連や満州と国境を接する朝鮮の羅津というところで、かなり大きなホテルを経営しておられたのだそうです。
 お父さんはホテルの経営をやめて帰国しようと思ったのだそうですが、軍の人から 「いざとなったら私たちが何としても守るからホテルを続けてくれ」と頼まれて残ったのだそうです。しかし、いざソ連が攻めてくるとその約束は守られず、大きな釜で朝のご飯を炊いたのもそのままにして、殆ど無一物で逃げ出したのだそうです。
 お母さんが亡くなったときには何とか荼毘に付してお骨を骨壷に入れることが出来たのですが、お父さんが亡くなったときにはそれもできず途方にくれていたら、親切な兵隊さんがいろいろやってくれて、やっとアルマイトの弁当箱にお父さんのお骨をいれて持ち帰ることができたということです。

第7回戦争体験を語り継ぐ
満蒙開拓団の悲劇
 8月25日(土)午後1時30分から
茂原市総合市民センター
 主催茂原九条の会
映画「一枚のハガキ」
新藤兼人監督最後の傑作。
豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政、柄本明、倍賞美津子、大杉漣、津川雅彦出演
9月30日(日)
午後1時30分②午後4時③午後6時3時
東部台文化会館
①午後1時30分②午後4時③午後6時30分