2006年8月10日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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昨日はタンゴにバンドネオンが加わったり、楽団が編成されるようになって変わったと言うお話をしました。歌もカルロス・ガルデルと言う名歌手が登場して、下賎な音楽であったタンゴが次第に大衆から上流階級にも浸透していくようになりました。ガルデルは歌だけではなく映画にも俳優として登場して大人気を博した時の人となりました。また、第1次世界大戦後、パリでタンゴが流行したのをきっかけにタンゴブームは世界各国に飛び火する事になります。そしてアルゼンチンタンゴがヨーロッパの音楽的要素を取り入れてコンチネンタルタンゴが生まれた訳です。

最初はボカの港の安酒場やいかがわしい踊り場で生まれたタンゴですから、踊りとしてもいやらしい踊りの汚名を着せられていたそうです。確かに男女がくっつき合い、足を絡ませて踊る姿は当時の上流社会の人々からは白い目で見られていた事は容易に想像がつきます。しかし、タンゴが流行のダンスになってからは、競い合ってコンテストが行われ、優勝したダンサーはあちこちのキャバレーやホールから引っ張りだこになっていきます。そしてダンスとしてもだんだん洗練されて現在我々が目にするような芸術にまで昇華して行ったんです。

タンゴ音楽もピアソラが登場して大きく変わります。彼はバンドネオンの天才奏者として、またモダンタンゴの先駆者として知られていますが、当初はアルゼンチンのタンゴ界からは異端児として扱われ、「あんなものはタンゴではない」とあまり歓迎されなかったそうです。彼は若い頃にニューヨークで育ち、パリで作曲の勉強もしました。そんな環境が彼の音楽を形成していったんでしょうね。ニューヨークでは当然ジャズやロックの影響を受け、パリではクラシック音楽、バロック音楽の影響を大きく受けてピアソラ独特の音楽が生まれたんです。昔ながらのタンゴファンには異質なものに聴こえたんでしょうね。しかし、彼はタンゴを踊るタンゴから聴くタンゴに変えたとも言えます。

日本でもヨーヨーマがサントリーの宣伝にリベルタンゴを使って有名になりましたね。それまではあまりピアソラの名前を知っている人はいなかったのではないでしょうか。何を隠そうかく言う私もアルゼンチンに行くまで知りませんでした。私が赴任したのが93年。ピアソラは丁度私が赴任する1年前の92年に亡くなっていました。しかし、アストール・ピアソラの息子さん・ダニエル・ピアソラとお孫さんのダニエル・ジュニア・ピアソラとはお付き合いさせていただきました。親子で同じ名前と言うのはよくある事ですが、ダニエルはキーボード奏者、ジュニアはドラマーで、ジュニアにはヤマハのドラムのプレーヤーとして良く仕事をしてもらいました。すごく感じのよい好青年です。今思うとあと1年早く赴任していればアストールに会えたのではと悔やまれます。

とり止めもなく書いていたら話があっちこっちに行ってしまいましたね。今日はこの辺で・・・。

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