それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

躁から鬱

2010-12-17 21:48:05 | 日記
ここ数日、軽躁状態に苦しんでいたが、ここに来てようやく軽鬱になる。

軽躁は研究に集中できないので非常に自分を苦しめる。

軽鬱は研究に集中できるが、他のことがおぼつかなくなる。

何もかも不安になるので、研究する動機が増え、他のことをする気が全くなくなる。

一長一短・・・。

そのなかで彼女と電話。

スーパー不機嫌な僕。

軽い鬱状態の時は彼女に迷惑をかける。

彼女はゆっくり僕の鬱状態を溶いてくれる。

でも早く研究に戻りたいので、早く電話を切りたい僕。

今年で決める。絶対。来年は帰る。

翻訳完了

2010-12-17 00:24:59 | 日記
日本の大学にいる友人の留学生に頼まれていた翻訳を終える。

まったく大した量ではないのだが(大学院の入試くらいのもの。いやもうちょっとあるな)、達成感がある。

なかなか面白い内容。勉強になった。

どうして、そういう頼みごとを引き受けるのか、と自分に問えば、答えはこうなる。

あいつは真面目で信頼できる男だから、頼まれたら出来るだけ引き受けてやりたい、ということ。

奥さんと子供のために頑張って研究している。性格が本当に真面目。気持ちのいいやつなのだ。

おそらくお礼のつもりなのだと思う。彼は実家に呼んでくれたことがった。

貴重なアフリカの体験になるはずだったのだが、あまりにも忙しくて行けなかった。

旅行嫌いの僕に、忙しい時の旅行ほど精神的に負担なものはない・・・。

でも行きたいという気持ちは強くある。いつか行きたいと思う。いつか・・・。

そして、みんな帰ってしまった

2010-12-15 21:41:39 | 日記
今日は一日だらだら研究。

夜になってお世話になっていた日本人留学生の方から連絡が入り、荷物をもらってほしいとのこと。

彼はこのブログに何度も登場している自転車をくれた実務家の人なのだが、さらに荷物があるという。

明日の早朝、日本に戻ってしまうのだ。

本を好きなだけ持って行ってというので見てみると、素晴らしい本が山のようにある。

とにかくバッグに入るだけ入れる。読めるかどうかはともかく、前から買いたかった本ばかり。感激。

さらに炊飯器に、小型オイル・ヒーター(電気でゆっくりじわじわ温かくなる足元用)、薬に鰹節などなど大量にもらう。

感激。先方も感激。双方感激。

ちなみに、来年別の日本人の方からまた別にヒーターをもらう予定。この家にはサブのヒーターが沢山になる。

いわゆる全館暖房なので、人数が少ない時にはとても便利。



しかし、帰ってしまうのはとてもとても悲しい。お話の面白い、聞き上手で優しい人だっただけに残念。

そして、明日はクリスも帰ってしまう。

ついこの前、ロブが帰った時も結構さびしくなってしまったが(しかしロブはそもそもここの住人ではない)、クリスはいよいよさびしい。

3週間もいないんだって!まいっちゃう!

昨日はジョーが帰った。

ジャニンももう帰るのだ。みんな帰るのだ。僕だけ居残るのだ。もし、みんな3週間帰ったら、僕はひとりで3週間も過ごすことになる。

去年、「東の坂」の寮の時は「みんな、帰ろう!ここは狭すぎる!」と思っていたが(あのスペースに7人!!今では想像もつかない)、今の家は逆にでかすぎる。

帰らない日本人をつかまえて、パーティでもしたいが、どうしようかしらん(あんまりしたくないとも言える)。

この家はパーティには最適なのだが・・・。

誰か遊びに来てくれ!!一緒にクリスマスと新年を祝おうではないか!!このブログを読んでいる諸君!!大半誰か分からないけど!!

イギリスの一軒家で大騒ぎしようじゃないか!

・・・って誰も来ねーーーー!

あえて正直に言おう、ここはあえて正直に書こう。

まじで、さびしいです。

僕は今、とてもさびしいです。

誰か一緒にいてほしいです。

あんまりそんな風に考えたことも感じたこともないけど、僕は今その気持ちを素直に受け止め、素直に書いてみました。

・・・くだらねーーーーー!

そんなにさびしいなら、誰かに会いに行けばいい。大学にも街にも人はたくさんいる。

うじうじしているのは、うじうじしたいからだ。

カサブタをいじくりまわしている快感のように、そういう孤独癖は子供のゆびしゃぶりのようなものだ。

つまり、とてもかわいいものだ。かわいらしいものなのだ。だから、そういう意味ではいいのだ。

これでいいのだ! ・・・??



今やっているプロジェクトをなんとか年明けに終わらせて、僕の誕生日付近で次のプロジェクトに移りたい。

次のプロジェクトは結構楽しみ。今までやってきたプロジェクトがいよいよ立体的になっていく。

CDが売れなくなっていること、いやむしろ、音楽にお金をださなくなっていることについて

2010-12-14 10:43:22 | コラム的な何か
この問題はもう5年くらい、ずっと議論されている。思ったことを書き留めておこうと思う。長くなるので注意。

実はこの「CD不況」の問題の本質は「CD」が売れなくなっていることではなく、音楽自体にお金を出す文化が危機に瀕しているということである。



1、「音楽の耐久性と比例する購買意欲、ところがそれは高いリテラシーを要求するので結局、購買されない」というジレンマ。

違法なダウンロードは明らかに売り上げ低下の原因のひとつだろう。僕ももうずいぶんCDを買っていない(ただしCD以外の音楽媒体は購入している)。

ダウンロードしないとしても、映像が配信されているHPによって簡単に視聴できる以上、キャッチーなだけの音楽は10回、20回聴けばそれで十分になる。飽きるのだ。

考えてもみてほしい。5年前、10年前のシングルCDをあなたは同じ値段かそれ以上で買うだろうか?もう古くなった。あるいは飽きてしまったのではないだろうか。

クラシック音楽のように、あるいは現在の大半のジャズのように、いわゆるポップスでは古典化するという現象がなかなか起こらない。大衆音楽は時代の文脈に左右されやすく、一過性のものであることが多い。

味の濃い料理が飽きやすいように、聴き心地にこだわった音楽、一回聴いて魅力的だと思わせる音楽、リテラシーの低い視聴者も引きつける音楽は、飽きやすい傾向にある。

また大衆音楽の場合、その「質」はまちまちだ。非常に高い質のものもあれば、かなり適当に作られたものもある。「質」が高ければ高いほど、何度聴いても発見があるし、視聴する側にとっても耐久性がある。

ところが、耐久性のある音楽、つまり「質」の高い音楽とされるものには、その理解に視聴者のリテラシーが必要になる。分からない人には分からないというわけだ。

たとえば素晴らしい交響曲は全く何も知らない人にも感動を呼び起こすだろうが、その素晴らしさを理解し、視聴し購買するに至るまでには、色々なことを知らなくてはいけない。

カラヤン指揮でベルリンフィルの演奏を聴いたとしても、それだけを聴いただけでは、それがどういうものなのかよく分からない。同じ曲を他の指揮者、他のオーケストラで聴くことで、その良さが徐々に分かってくる。

それ以上に、交響曲などの複雑な曲を一度聴いただけで理解するというのは、100%不可能である。構造があまりにもよく出来ているものは、簡単に理解できない。何度も聴いて、必要ならスコアも見る必要がある。

全部を知る必要などない。「良い」と思えば何でもいいのだ。しかし思い出してほしい、問題はCDを「買う」かどうかなのだ。

耐久性がなければ購買する必要がないのに、大半の視聴者はその耐久性をなかなか理解できない。それにはリテラシーが必要だから。リテラシーを得るには色々買う必要がある。

そこに決定的なジレンマがある。

では、そのジレンマを解消するにはどうすべきか?ラジオやテレビなどの接触率が高く、かつほとんど無料のメディアで啓蒙活動する必要がある。

ところが、リテラシーを高める内容の番組は少ない。リテラシーが低い人にはN響アワーも芸術劇場も敷居が高すぎる。ジャズを色々解説する番組はとうの昔にほとんどが消滅。

大衆音楽のランキングは、いわば様々なジャンルの総合商社だ。

ソウル音楽もあれば、ロックもある。演歌もあれば、フォークもある。ハウスもあればテクノもある。その文脈に従って解説を加えなければ、結局リテラシーは高くならない。

リテラシーが高まらなければ、視聴者は買う必要が出てこない。

今のところ、TVやラジオの大衆音楽のための番組もリテラシーを高めるのではなく、サブリミナル効果(語弊ありありだが)を狙っただけの内容が多いのが実情だ。



2、CD自体の実質的な値上がりと、ハードとしての機能性の低下

もうひとつ決定的な原因は不況だ。デパートだって潰れる時代に、服をはじめ多くの商品がものすごく安くなりつつあるデフレっぽい時代に、邦楽のアルバムCDの値段はそのまま3000円前後。

つまり実質的に3000円の邦楽アルバムは値上げしているのと同じなのであって、売り上げが落ちるのは当たり前。

また今、実際に音楽を視聴する媒体は多様化している。

コンポで聴く人もいれば、パソコンやアイポッドで聴く人もいる。後者がかなり増加していることに伴って、ネット配信による音楽購入が増加中だ。携帯でダウンロードの人もかなりいるだろう。

見方を変えれば、ネットで違法ダウンロードすることが前提になっているなかで、いかにそこに利益を出せるシステムを構築できるかが問題になっている。

CDは確実にその役割を低下させてきている。ヒップホップ文化隆盛のおかげで、レコードが生き残ったように(DJがかけたり、サンプリングしたりする)、CDも確実に消滅はしないだろう。しかし、レコードと同じように、売り上げが再上昇することは考えにくい。

ところがデータのやりとりが前提になればなるほど、ネットで違法にやりとりしやすくなってくる。いわゆるネット・ネイティブ世代、つまりインターネットが生まれる前からある世代には、ネットを使いこなすのは相当簡単になってきており、そちらのリテラシーが高まってしまっている。

これを前提にビジネスモデルを組みなおすことができるのかが問われている。



3、音楽を買う動機を高める:物語と思想

だから結論は「もうCDは売れない」である。問題は音楽自体が売れなくなってきていることだ。

先にも述べたように、違法ダウンロードは不況の追い風もあって、音楽自体にお金を出す文化そのものを侵食している。

ネット配信によるビジネスの確立は、単にこて先のシステムの構築では達成できないだろう。音楽をめぐる社会規範そのものを支える必要がある。

では、どうすべきだろうか?


3-1 物語
・アイドル的物語
ひとつは、音楽に「物語」という付加価値を付けることだ。

例えば、アイドルの楽曲はその「質」はまちまちだ。これまでアイドルにはしばしば「質」の高い音楽が提供され、アイドルがそれを下手にパフォーマンスしてきた。

その「下手さ」こそアイドルの所以であった(アクターズ・スクールのような実力派の流れがあったにせよ)。

むしろ、この「下手さ」をアイドルは武器に変えてきた。いわゆる「萌え」だ。

ロリコン的な、あるいは清純思考的な、欲求を満たすこの「萌え」であり、それは強い誘因力を生む。

それはCDを買うことをはじめ、「応援すること」に異常な付加価値をつける。

つまり、ある特定のキャラクターに対して「応援したい」という誘因をもたせればCDを買うことにつながる。

その「応援したい」には「物語」が必要になる。物語を様々なメディアで垂れ流していくことで、この物語は人々に浸透する。


・タイアップによる「物語」の付与
あるいは、映画やアニメとのタイアップもひとつの「物語」だ。

映画やアニメが楽曲に不足している物語性を補い、その楽曲に意味付けする。

それによって視聴者は楽曲単体以上の満足を得る。

アニメや映画のギミック(本編の筋とは関係ない設定や内容)が複雑化すればするほど、好きな視聴者はその世界にはまっていく。楽曲がそのギミックとかみ合った瞬間に、その楽曲の意味は広がり、購買意欲につながる。

物語は楽曲単体よりも、長期的な売上につながる。数で稼ぐというわけだ。


・物語の危機、という背景
この物語の必要性の裏側には、日本社会が全体でひとつの物語を共有できなくなっているという現実がある。

また、楽曲そのものが物語を示唆しなくなっている。それは歌詞の質の問題である。



3-2 思想
もう一つの可能性は「思想」だ。

ここで僕が「思想」と呼ぶのは何かというと、「その楽曲が乗っている音楽史的文脈を理解し、その楽曲の音楽史的意義を理解すること」だ。

ラップならラップのこれまでの文脈を知る必要がある。それはアメリカの移民の歴史をはじめ、アフロ・アメリカンたちの無茶苦茶な個人史にもなるだろう。ソウル音楽ならゴスペルやブルースに始まる。

日本の音楽は日本の文脈があるので、これも追っていく必要がある。

明らかにこれは大変だ。しかし、メディアがこれを少しずつ進めなければ、リテラシーは高まらず、音楽そのものにお金を出す文化・規範はいずれ消滅する。

近年、このリテラシーを積極的に行った番組を管見の限りで挙げると、代表的なのが

・ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル(TBSラジオ):今も放送中

・菊地成孔と大谷能生の水曜WANTED(東京FM):4年くらい前に終了

である。菊地氏の番組はもう一度始めるべきだ。音楽業界のためにである。



以上から結論はこうなる。新しい話はない。

①CDの売上が上がることはもはや考えにくい。それに代わってネット配信のビジネス・システムをなんとか作らなくてはいけない。しかし、問題の本質はそこではない。音楽そのものにお金を出す文化が危機に瀕しているということだ。

②これを維持するには、メディアによる新しい啓蒙活動が不可欠。新しく出てきている音楽番組の潮流をさらに拡大させるべき。

③同時に、アーティストそれ自体に物語をつけるか、映画やアニメとタイアップさせることで楽曲に物語をつけるか、いずれかが必要。


(了)

ダークナイトも観る

2010-12-14 00:08:07 | コラム的な何か
ダークナイトを観た。

最初から最後の展開まで、あまりの衝撃に一同(ボブ、クリス、僕)声を失う。

傑作だが、嬉々として人に薦めたくはない。僕にとってはカタルシスが非常に少なかったからだ。

感動と言うより、衝撃とその思考の深さに脱帽。

ヒーローというものが驚くほど正確に分析されている。

法の支配から逸脱したところにある暴力こそがヒーローの本質、という示唆。

指摘はさらに深く、その暴力を担う人間の動機(トラウマ)の異常さを示唆。ヒーローをテロリストと対照することで、ヒーローを演ずることそのものが「疾患」であると観客に気づかせる。

同時に、その示唆は「正義」の不安定性にも及ぶ。社会的正義や、各々個人が想像する正義の不可避的矛盾。登場人物によって「正義」は何度も反転し、ことごとく相対化されていく。

困ったことに、この映画は読めば読むほど深く読める・・・。きりがない。

その「きりのなさ」こそ、この映画が傑作である所以と感じた。