それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

取り留めのない話:自由、不自由、虚無にたどり着く前に

2010-12-04 19:57:07 | 日記
今回取り組んでいる章の半分を提出した。

後、残り半分。

提出して、ようやく少し気がゆるんだ。



いつも取り留めのない話を書いているが、それでも話の筋はある。

今日は無いまま書き、無いまま公開し、気に入らなければすぐに消すだろう。



今考えていること。即興と自由、のこと。

即興や、調性やリズムの不在、を突き詰めたら自由になるのか、と問う。

その人の自由に合っていれば自由なんじゃないかな。

デレク・ベイリーという演奏家のことを知った。徹底して調性やリズムから「自由」な即興演奏を行い、良く分からないが、すごい影響力があった人だそうだ。

クラシックではジョン・ケージなど、音楽をぎりぎりの領域まで広げた、あるいはテクテク歩いて行ってしまった人がいた。

高校生のころ、ジョン・ケージのことを知ったとき、そういう意味での西洋性の延長線が真白で、虚無の世界のような気がして、「あ~、やーめた」という気持ちになった。

ベイリーの音楽を聴いてみても、「自由」って不自由だなあという印象を受けたけれど、そうじゃなくて、その演奏家や聴き手が「自由だあ」と思えば、それでもう自由なのかなと思う。



自分の研究に「最果て」はあるのか?と問うことはある。

ただ、音楽よりも自分の領域は健忘症のように思える。

つまり、みんなが「新しい」と思えば、新しいのだ。



いよいよ話の筋は無いのだが、自分が好きなものはできる限り、情報を収集し、実際に肉体を通じて体験した上で、それで自分が感じたことを徹底的に問う、ということでいいのかなと今は思う。

つまり、ロジックを肉体を通じて感じたこと以上に、あまりにも無理やりに積んでいけば、おそらく虚無に行きつくのではないかな、と。

だって、体験できないんだもん。