それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

官能的表現行為と批評

2010-12-30 10:32:33 | コラム的な何か
音楽といった芸術表現は非常に官能的である。

小説や詩は言葉を使いながらも官能的だ。



これに対して、そうした官能的表現行為を批評する行為は官能的ではない。

批評家は官能的な表現を心の中で願うが、その才能がないので批評家をやっている。

そうした願望と自己の現実の食い違いが、批評家の気持ちの悪い文体を生むことがままある。



ところが、まれにそうした批評家のなかから、官能的に批評ができる人間が出てきてしまう。

おそらく、その代表的な例が菊池成孔だ。

彼自身は音楽家だが、批評家としても異常なまでに官能的な才能を持ってしまった。



しかし、官能的な批評、というものが孕むそもそもの矛盾が周囲の人間を困惑させる。

「批評はいくら官能的でも、官能的表現行為に従属したものなのではないか?」という困惑を。



批評は果たして官能的表現行為の端女なのか?

この問題は、プロレスにおける「アントニオ猪木―村松友視―前田日明」の関係に象徴されている。

猪木は村松が描いたプロレス像、哲学というものを取り入れようと考えた。少なくとも否定しなかった。

これに対して前田は批評家と選手の差異を絶対に許せなかった。それはここでいうところの、官能的表現行為と批評の差異であり、ある意味では深淵である。



この問題を考えると、いつも「自分が社会科学を研究していることにどういう意味があるのか」、というありがちな不安に帰着する。

そして、官能的な社会科学の論文など・・・、と思って安堵するのである。

社会科学の論文における魅力は、ある種の官能的表現行為のそれに似ているかもしれない。

しかし量も質も明らかに違う。

そのうえ、多くの場合、その官能性の存在にすら気付かれていない。

自分が社会科学の論文において、官能性の問題を自分なりに決着できたのは比較的最近である。

これはなかなか伝えにくいことだが、実は大事なことだと思っている。