それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

CDが売れなくなっていること、いやむしろ、音楽にお金をださなくなっていることについて

2010-12-14 10:43:22 | コラム的な何か
この問題はもう5年くらい、ずっと議論されている。思ったことを書き留めておこうと思う。長くなるので注意。

実はこの「CD不況」の問題の本質は「CD」が売れなくなっていることではなく、音楽自体にお金を出す文化が危機に瀕しているということである。



1、「音楽の耐久性と比例する購買意欲、ところがそれは高いリテラシーを要求するので結局、購買されない」というジレンマ。

違法なダウンロードは明らかに売り上げ低下の原因のひとつだろう。僕ももうずいぶんCDを買っていない(ただしCD以外の音楽媒体は購入している)。

ダウンロードしないとしても、映像が配信されているHPによって簡単に視聴できる以上、キャッチーなだけの音楽は10回、20回聴けばそれで十分になる。飽きるのだ。

考えてもみてほしい。5年前、10年前のシングルCDをあなたは同じ値段かそれ以上で買うだろうか?もう古くなった。あるいは飽きてしまったのではないだろうか。

クラシック音楽のように、あるいは現在の大半のジャズのように、いわゆるポップスでは古典化するという現象がなかなか起こらない。大衆音楽は時代の文脈に左右されやすく、一過性のものであることが多い。

味の濃い料理が飽きやすいように、聴き心地にこだわった音楽、一回聴いて魅力的だと思わせる音楽、リテラシーの低い視聴者も引きつける音楽は、飽きやすい傾向にある。

また大衆音楽の場合、その「質」はまちまちだ。非常に高い質のものもあれば、かなり適当に作られたものもある。「質」が高ければ高いほど、何度聴いても発見があるし、視聴する側にとっても耐久性がある。

ところが、耐久性のある音楽、つまり「質」の高い音楽とされるものには、その理解に視聴者のリテラシーが必要になる。分からない人には分からないというわけだ。

たとえば素晴らしい交響曲は全く何も知らない人にも感動を呼び起こすだろうが、その素晴らしさを理解し、視聴し購買するに至るまでには、色々なことを知らなくてはいけない。

カラヤン指揮でベルリンフィルの演奏を聴いたとしても、それだけを聴いただけでは、それがどういうものなのかよく分からない。同じ曲を他の指揮者、他のオーケストラで聴くことで、その良さが徐々に分かってくる。

それ以上に、交響曲などの複雑な曲を一度聴いただけで理解するというのは、100%不可能である。構造があまりにもよく出来ているものは、簡単に理解できない。何度も聴いて、必要ならスコアも見る必要がある。

全部を知る必要などない。「良い」と思えば何でもいいのだ。しかし思い出してほしい、問題はCDを「買う」かどうかなのだ。

耐久性がなければ購買する必要がないのに、大半の視聴者はその耐久性をなかなか理解できない。それにはリテラシーが必要だから。リテラシーを得るには色々買う必要がある。

そこに決定的なジレンマがある。

では、そのジレンマを解消するにはどうすべきか?ラジオやテレビなどの接触率が高く、かつほとんど無料のメディアで啓蒙活動する必要がある。

ところが、リテラシーを高める内容の番組は少ない。リテラシーが低い人にはN響アワーも芸術劇場も敷居が高すぎる。ジャズを色々解説する番組はとうの昔にほとんどが消滅。

大衆音楽のランキングは、いわば様々なジャンルの総合商社だ。

ソウル音楽もあれば、ロックもある。演歌もあれば、フォークもある。ハウスもあればテクノもある。その文脈に従って解説を加えなければ、結局リテラシーは高くならない。

リテラシーが高まらなければ、視聴者は買う必要が出てこない。

今のところ、TVやラジオの大衆音楽のための番組もリテラシーを高めるのではなく、サブリミナル効果(語弊ありありだが)を狙っただけの内容が多いのが実情だ。



2、CD自体の実質的な値上がりと、ハードとしての機能性の低下

もうひとつ決定的な原因は不況だ。デパートだって潰れる時代に、服をはじめ多くの商品がものすごく安くなりつつあるデフレっぽい時代に、邦楽のアルバムCDの値段はそのまま3000円前後。

つまり実質的に3000円の邦楽アルバムは値上げしているのと同じなのであって、売り上げが落ちるのは当たり前。

また今、実際に音楽を視聴する媒体は多様化している。

コンポで聴く人もいれば、パソコンやアイポッドで聴く人もいる。後者がかなり増加していることに伴って、ネット配信による音楽購入が増加中だ。携帯でダウンロードの人もかなりいるだろう。

見方を変えれば、ネットで違法ダウンロードすることが前提になっているなかで、いかにそこに利益を出せるシステムを構築できるかが問題になっている。

CDは確実にその役割を低下させてきている。ヒップホップ文化隆盛のおかげで、レコードが生き残ったように(DJがかけたり、サンプリングしたりする)、CDも確実に消滅はしないだろう。しかし、レコードと同じように、売り上げが再上昇することは考えにくい。

ところがデータのやりとりが前提になればなるほど、ネットで違法にやりとりしやすくなってくる。いわゆるネット・ネイティブ世代、つまりインターネットが生まれる前からある世代には、ネットを使いこなすのは相当簡単になってきており、そちらのリテラシーが高まってしまっている。

これを前提にビジネスモデルを組みなおすことができるのかが問われている。



3、音楽を買う動機を高める:物語と思想

だから結論は「もうCDは売れない」である。問題は音楽自体が売れなくなってきていることだ。

先にも述べたように、違法ダウンロードは不況の追い風もあって、音楽自体にお金を出す文化そのものを侵食している。

ネット配信によるビジネスの確立は、単にこて先のシステムの構築では達成できないだろう。音楽をめぐる社会規範そのものを支える必要がある。

では、どうすべきだろうか?


3-1 物語
・アイドル的物語
ひとつは、音楽に「物語」という付加価値を付けることだ。

例えば、アイドルの楽曲はその「質」はまちまちだ。これまでアイドルにはしばしば「質」の高い音楽が提供され、アイドルがそれを下手にパフォーマンスしてきた。

その「下手さ」こそアイドルの所以であった(アクターズ・スクールのような実力派の流れがあったにせよ)。

むしろ、この「下手さ」をアイドルは武器に変えてきた。いわゆる「萌え」だ。

ロリコン的な、あるいは清純思考的な、欲求を満たすこの「萌え」であり、それは強い誘因力を生む。

それはCDを買うことをはじめ、「応援すること」に異常な付加価値をつける。

つまり、ある特定のキャラクターに対して「応援したい」という誘因をもたせればCDを買うことにつながる。

その「応援したい」には「物語」が必要になる。物語を様々なメディアで垂れ流していくことで、この物語は人々に浸透する。


・タイアップによる「物語」の付与
あるいは、映画やアニメとのタイアップもひとつの「物語」だ。

映画やアニメが楽曲に不足している物語性を補い、その楽曲に意味付けする。

それによって視聴者は楽曲単体以上の満足を得る。

アニメや映画のギミック(本編の筋とは関係ない設定や内容)が複雑化すればするほど、好きな視聴者はその世界にはまっていく。楽曲がそのギミックとかみ合った瞬間に、その楽曲の意味は広がり、購買意欲につながる。

物語は楽曲単体よりも、長期的な売上につながる。数で稼ぐというわけだ。


・物語の危機、という背景
この物語の必要性の裏側には、日本社会が全体でひとつの物語を共有できなくなっているという現実がある。

また、楽曲そのものが物語を示唆しなくなっている。それは歌詞の質の問題である。



3-2 思想
もう一つの可能性は「思想」だ。

ここで僕が「思想」と呼ぶのは何かというと、「その楽曲が乗っている音楽史的文脈を理解し、その楽曲の音楽史的意義を理解すること」だ。

ラップならラップのこれまでの文脈を知る必要がある。それはアメリカの移民の歴史をはじめ、アフロ・アメリカンたちの無茶苦茶な個人史にもなるだろう。ソウル音楽ならゴスペルやブルースに始まる。

日本の音楽は日本の文脈があるので、これも追っていく必要がある。

明らかにこれは大変だ。しかし、メディアがこれを少しずつ進めなければ、リテラシーは高まらず、音楽そのものにお金を出す文化・規範はいずれ消滅する。

近年、このリテラシーを積極的に行った番組を管見の限りで挙げると、代表的なのが

・ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル(TBSラジオ):今も放送中

・菊地成孔と大谷能生の水曜WANTED(東京FM):4年くらい前に終了

である。菊地氏の番組はもう一度始めるべきだ。音楽業界のためにである。



以上から結論はこうなる。新しい話はない。

①CDの売上が上がることはもはや考えにくい。それに代わってネット配信のビジネス・システムをなんとか作らなくてはいけない。しかし、問題の本質はそこではない。音楽そのものにお金を出す文化が危機に瀕しているということだ。

②これを維持するには、メディアによる新しい啓蒙活動が不可欠。新しく出てきている音楽番組の潮流をさらに拡大させるべき。

③同時に、アーティストそれ自体に物語をつけるか、映画やアニメとタイアップさせることで楽曲に物語をつけるか、いずれかが必要。


(了)

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