それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

励み

2010-07-22 19:01:53 | 日記
僕が以前書いた論文を読んでくださった先生からメールが来ていて、研究会に講師に来てくれ、という。

こういう話はありがたい。この先生と僕は全く面識がない。しかし僕の論文に興味を持ってくれたのである。

実際、以前も同じパターンの話が二回あって、僕は恐縮してしまった。これで三回目である。

イギリスに来てからはしばらく研究に関しては放っておいてほしいと思っていたから、あらゆる僕への連絡が煩わしく思われたが、今は研究が進んでいるので、こういう連絡を受け入れられる。

余裕のあるときにこそ話を受けてしまって、自分をそのスケジュールに縛りつけた方がいいのかもしれない。翻意したりしてはいけない。自分でも研究の調子が悪いと何をしでかすか分からないのである。

研究しよう。自分の調子を維持するためにも。

ノスタルジー、僕の不完全性定理

2010-07-22 05:21:55 | 日記
小学6年生のころ、自由課題のノートを毎日か週に何回か提出しなくてはならなかった。

毎回、そのノートに自分の好きなことについて論じるというもの。

今思うと毎回チェックする先生は大変だったろうなと思う。

そこでひとつだけ覚えていることがある。

僕はある日、読んでいた図解の数学の本のなかから、ゲーデルの不完全性定理のページを丸々書き写したのである。

もちろん意味など分からない。ただ、ゲーデルの似顔が印象的でそれをどうしても書きたかったのだと思う。

そして、先生は大きく「?」と付けてきた。

あれから何年たったか、イギリスの大学院で博士号を目指しながら、あの時の少年は、どういうわけか再びゲーデルの不完全性定理に興味を持ったのである。

そして再度調べてみる・・・、分からない。

大人になっても、分からない。

再びこんにちは少年の僕。

社会科学者として心配な僕。

どうもこの不完全性定理は嘘つきのパラドクスと関係しているらしい。

これはよくTVでも出てくるやつ。

A「お前はウソをついたら殴る。本当のことをいったらビンタ。さあ、何か言え。」

B「僕は殴られます。」

こうなると殴ることも、ビンタもできなくなるという話。

今思えば、この不完全性定理の前の方のページには嘘つきのパラドクスの話も載っていた。

さて、いざ本丸へ、というわけで不完全性定理について一生懸命考えるが、なんだかよく分からない。

とにかく、正常な論理体系のなかには必ず証明不可能な命題が存在するらしく、同時に、そうした論理体系は自分自身の無矛盾性を証明できないらしい。

これじゃあ、小学生のとき同じ理解!!

その証明自体は、「はあ、そうですか。そう見えますね。」という浅い理解しか及ばず、その後に出てきた同じような、チャイティンの不完全性定理に至ってはチンプンカンプンである。偶然性が何・・・?

僕の不完全性が証明されました。ごきげんよう。

勘、肉体、五感

2010-07-21 03:32:00 | 日記
勘、肉体、五感というものについてしばしば考えている。

長いこと考えている。

僕がジャズマンたちに会って、彼らの感じている世界が自分の世界と全然違うのだと気づいたときからだ(会ってからも全然気がつかなかった。僕は音符の世界に囚われていたのだ。)。

同じように音楽をやっているように見えて、その実、全く違う世界を感じているなんて!

知ったとき、僕は衝撃を受けた。

そういうわけで、まだ文章にはできないのだけれど、僕はこの勘、肉体、五感の3つに、その関係に殊更興味があるのだ。

自分はゆっくりゆっくり理性で観察し、言葉を積み上げることで生活している。

しかし、政治家や芸術家、アスリート、ジャーナリスト、宗教家などに必要なのは、理性を使えるのはもちろんのこと、それ以上にこれら3つが鍛えられていることである。

そのことをみんな忘れがちだ。頭の良さ?もちろん、それは大事だが、東大出身の政治家で大物政治家ってどれほどいる?

僕はアスリートが良い政治家になるとか、宗教家や芸術家が良い政治家になると言っているのではない。おそらく最悪な政治家が出来上がる。

職業によって、必要な勘や肉体、五感の使い方が全然違うし、何度も言うようだが、理性や教養も大事である。しかし、少なからず学歴は必要条件ですらなかったのでは?ということなのだ。

学歴以外の判断基準がなくては政治家の観察なんて意味が無い。

学者を見ていても、ごくたまにこれらの3つが非常に優れている人がいる(だからといって、そういう人が大物の学者になるというわけではない。学者は別の基準の世界だ。)

これら3つの要素が優れている人は、異常に人を惹きつける場合が多々ある。

一般の人もそれらがすごい人を見分ける能力がある程度備わっているのかもしれない。

僕はそうした点ですごい人の行動を観察するのが好きなのかもしれないし、誰しも好きなのかもしれない。

おそらく、これら3つの能力を鍛える方法はあるはずだが、学校では教わらないし、自分の世界とかなり違うのでまだ謎である。

「Don't think. Feel!」(ブルースリー)である。

なぜこんなことを書いたのか?

説明するのが面倒なので今は書かない。大したことではない。ただ僕は色々なことを面白がっている。

映画「ぐるりのこと」、私のこと、フローズンヨーグルトのこと

2010-07-20 03:37:42 | 日記

■FYのこと

提出後、用事があって街へ。

帰りに前からチェックしていたフローズンヨーグルト屋さんへ。

僕は行く先々でアイスを食べる、アイス野郎なのだ!

今日はシャーベットでも、アイスクリームでも、ジェラートでもないフローズンヨーグルト(以下、FY)。

これまで日本のお店で食べて失敗した苦い経験をもつFY。

今回のお店は・・・・・・、最高です!美味しかったです。

まさにミルクではなく、ヨーグルトだからこそ出てくる酸味が見事に生きている。

われわれがFYに求めるのは、コクではなく、さわやかさなのだ!それをよく分かっている。

そしてその酸味も強すぎない。甘さとの調和が素晴らしい。口どけもきわめて上質になめらか。

そこに生のフルーツをトッピング。このフルーツはフローズンではないのです。そこが良かった。

凍っていないからこそ出てくるフルーツの甘さがFYの酸味と調和。決して固くないフルーツの触感は、FYに違和感を惹き起こすことなくマッチ。

そう!これこそFYだ!



■映画「ぐるりのこと」

観てしまいました、「ぐるりのこと」。主演のリリー・フランキー絶賛の声とともに、映画自体を熱く評価する人が絶えなかったこの作品。

自分は映画をほとんど観ないけれど、もう今日は研究を本当にしたくなくて(本当に今回の論文の執筆で消耗したのか、珍しく)、この映画を観ることにしたのであります。

最初の3分の1で、観るのを止めそうになった。悲しくて。

それに加えて、人間(特に若者)の描き方が偏っているのではないかとの違和感を抱いていたものの、その後、一気に映画に引き込まれる私。

リリーさんの奥さん役の木村多江さんは、見事に壊れていく女性。

リリーさんはちゃらんぽらんなようで、大事なものをつかんで離さない芯のある男性。

両者の好演はまさに受賞もの。セリフを言っている感じが一切しない。一番、セリフになりそうなカタストロフィがマックスのシーンでの、リリーさんの(主人公の)過去に触れる応答は天才的。見事。


自分が一番引き込まれたのは、男性、女性それぞれの描き方。

特に、女性と血の描き方は暗喩全開。

生理、出産はまさに女性の性の部分であり、生をつかさどる部分。そこで血はきわめて重要な意味をもつ。

他方、出血すれば人間は死んでしまうわけで、血には死の意味も感じさせる。

その死はリリーさんが傍聴し続ける事件とつながり、生の部分は木村さん演じる奥さんの妊娠をめぐる部分とつながり、そのふたつは、奥さん自身が壊れていく中でひとつにつながる。

最初、この比喩的な部分がいやらしく感じたのだけど、奥さんの崩壊のなかで見事に昇華されてしまった。


男性の描き方の方でポイントだったのは、パートナーの困難に直面したとき、男はどうするのか、ということ。

死ぬのも逃げるのと一緒、というリリーさんの言葉は本当に厳しい。

映画のなかでは、逃げる男が度々登場する一方、戦う男も登場。リリーさんは自分にどちらであるのか?と問いかける。中間です、と言うものの、立派に戦ちゃってるリリーさん。

男の弱さをとことん突きつけられる視聴者。すいません・・・。


「おくりびと」と反対に、人間のいやらしい部分を沢山描いてきたこの作品。人によっては「おくりびと」より俄然「ぐるりのこと」という人も多いはず。

というのも、それをリアリティと感じる人がきっといるから。

ただ、この男女の関係の微妙な機微は、視聴者の経験によって感じ取れる人と感じ取れない人も出てくるかもしれない、とこの映画の感想をネットでチェックしながら、ため息。

突きつけられた問題がいかにハラワタにズシンとくるかは人それぞれかも。

結局、後味の良い映画としてすっきり見られるのは、最後のストーリーの展開とともに、急激なテンポアップのせいでもある。

それまでに十分ストーリーを視聴者のなかに飲み込ませ、盛り上がらせたので、そこからの静寂→テンポアップは、本当にコントラストで効果的。


自分の深いところを鎮めてくれた映画です。ありがとう、監督&スタッフ(僕は誰?)。

論文提出しちゃえ、ポジティブに頑張れない、そっくりさん

2010-07-19 17:30:41 | 日記
ラジオを聴きながらビブリオを作ってみたら、案外大変で、完成直後感じたのが、このペースで作業したら、一年後自分はおかしくなっている可能性があるということだ。

とにかく章としては完成しているわけで、自分としては翻訳さえできれば、それ自体どこかに発表してもバチは当たらないんじゃないかなと思うなわけで、一旦、指導教官ふたりにメールで提出することにした。

8月頭締切でと言っていたが、2週間早くなった。そもそも締切設定自体、かなり大胆に長く取ったので、想定内と言えばそうだが、指導教官の方はおそらくそんな僕の想定は知らないから、急に早まったと取るだろう。

しかし、逆に前回のアウトライン承認前には、「もう次の章を書けるから」と大きく出つつ日本に帰り、締切日までに半分だけ書いて(しかもその英語がぐちゃぐちゃ)出すという己の限界を見せつけたので、その点で、そんなに驚きはないだろう。(結局、「全部書いてからもう一度出してくれ、その時読む」と言われる。そりゃそうだ。)

そして、とにかく指導教官が僕の論文を読んでいる間に、9月あたまの研究会発表準備をしよう。今は少しの間、読書→ノート→読書→ノート・・・作業になるので、体と精神を休めよう。



演出家・作家・俳優の松尾スズキが良いことを言っていた。

「がんばれません」がモットー。

がんばらない、ではなく、がんばれない。「能力の限界です。そんな自分だけどいいでしょう」、ということらしい。

がんばれない自分を愛する、というのはいい。

これは頑張りすぎる人とは別の処方せんのように見えるけど、頑張る人の中には「自分、頑張れていないっす」と言って、頑張りすぎるので、そういう人にもお勧めである。

松尾スズキの話を聞いていて、どこかで同じようなことを言っている人がいたと思ったら、リリー・フランキーだった。

ふたりとも九州出身。頑張れない、ゆるい大人。でもかっこいい変態的大人のイメージ。

このふたりについては色々言いたいけれども、ここではなかなか書きにくいので、やめておこうと思う(ふたりが変態でかつ、かっこいいという点がとても重要なのだが、僕がそれについて書くとただの変態になるのである)。

要するに、ふたりは似ている。確かに似ている。よく見れば似ていないが、キャラクター、ちょっと似ている。



似ていると言えば、最近、奥田民生のライブ映像(三人の侍@札幌)を見ていて、「あれ?最近、この人、別のとこでも見たな」と思ってよくよく記憶をたどると、ライムスターのマミー・Dの記憶だったことが判明。

僕の中では、このふたりも似ている。