それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ドキュメンタリー作家の思いで

2010-07-27 04:30:10 | 日記
昔、ドキュメンタリー作家の森達也さんに会ったことがある(この肩書きが正しいかはともかく)。

最近、彼の昔の映像作品を見て思い出してしまった。

本当に残念ながら、当時の僕は、全然彼の作品を見たこともなかったし(本を少し読んだくらいで)、彼と会話するのに必要な知識も、態度も何もかも備わっていなかった。

しかし成り行きに任せて少しだけ彼と話をしてしまった。話の途中で僕は彼に鋭く切り返されて思わずひるんだ。

僕はすぐに白旗をあげてしまった。

僕がそこで学んだことは「何を言っても構わない。でも、ちゃんと考えて言うこと」。

彼は怒っていたのではない。

いや少し怒っていたかもしれない。

でも、彼が怒っていたかどうかなんてどうだっていいのである。自分の発言に信念や考えがあれば。

彼の切り返しは、あとで知ったのだけれど、ドキュメンタリーのなかでしばしば見られる彼独特の姿勢であった。

おかしいと思ったことを腹を据えて追及する。彼の作品を支える姿勢のひとつだ。



彼の作品の面白さは、他にもたくさんある。

例えば簡単に答えを出さない点だ(もちろんシンプルなメッセージのものもあるが)。

間違っているとか、正解だとか彼は言わない。ただ彼が納得するまで追求し、納得できなくても、そのまま。ごまかさない。

だから面白い。だから引き込まれる。読者や視聴者は彼の思考の世界にそのまま連れて行かれるのだ。

社会科学の論文もそうありたいと僕は思う。



数年前に森さんと話をほんの少ししたとき、僕はうっすら気がついたのだ。

僕は本当に未熟な人間である、と。

僕はまだ未熟だ。子供だ。

今、彼と会っても、僕はそう思うだろう。

どうしたらいいのか分からないけれど、でも焦らないこと。

無理をして何になるのか?

自分のペースでゆっくり見聞きし、感じ、社会が何なのか見つめ考え続けるしかない。

そのために社会科学をやっているのだから。