それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

静かな夜、静かな別れ、タイ料理

2010-07-01 06:49:42 | 日記
新しいフラットの夜は静かだ。

たまに電車の通る音がするくらい。それも、うるさいようなものではない。

僕が住んでいる地域は住宅街のはしっこで、これがなかなか静かだ。



これまでは、これでもかというほどうるさい夜ばかりで、こんなに静かな夜は数えるほどだった。

それでもキッチンに出れば誰かすぐに来るような状態だったから、さびしさというものを感じたことはほとんどない。

しかし、このフラットはリアルに人がおらず(メンバーの半分が実家や誰かの家にいるらしく)、人に会わない。

論文を書きだすまで、もう一息なのだが、少し足踏みしていることもあって、少しさびしさを感じている。

だから、就寝前に少しブログに走った。



この間、前のフラット・メンバーとのお別れ会。

お別れ会を開くフラットというのは実はそんなに無いのだそうで、僕らのフラットがどれだけうまくいったかの証でもある。

僕らは中心街のタイ料理屋で最後の食事をともにしたのである。

しかし、この会、お別れ感はまったくなく、いつもどおりの食事の風景。冗談を言い合って、あっという間に時間過ぎおしまい。

別れのリアリティが無いのか、そもそも、偶然出会ったもの同士。別れもまた自然に受け入れ、思い出へとゆっくり消化されていくのだろうか。



早めに帰りのバスを降りていく僕の隣人の香港女とその彼氏。

彼女は皆にハグをして回る。

僕は気遅れしてしまってタイミングを外し、彼女の拳が軽く顔面を直撃するという事態に見舞われる。

そのハグは初めてなのに、全く初めてのような気がしない不思議なものだった。

誰かとのハグに似ていたのか、それとも一年分培った親しさのゆえか?

こういう別れは清々しくていい。悲しくない。でも、思い出は残る。



この話の流れに水を差すようだが、お別れ会で食べたタイ料理。少し発見があった。

そこの料理はどれもとても甘くて、それはココナッツミルクとナッツ類、さらに砂糖のせいだったと思う。

タイ料理といえば、パクチー(コリアンダー)とトウガラシをふんだんに使うが、そこでは全く使われていなかった。

タイ料理の甘さは、パクチーの強い香りと、刺激的な辛さによって調和が保たれているのだと気づく。それらが無くなると、とてもバランスが悪い。

なるほど、ゆっくりと培われた料理には知恵が詰まっているのだなと僕は思った。間違いかもしれないけれど。