ここ数日で、ようやく地元の会うべき友人たちには会いつくしたように思われる。
よく飲み、よく話した、と思う。
特に昨日は、写真について勉強させてもらった。私の愛すべき友人が写真を本格的にやっていて、それで写真展やら写真集やら、彼の写真やらを沢山みせてくれて、沢山解説してくれたのである。
論文には論文の作法があり、音楽には音楽の作法がある。
論文のそれはとても厳しくて、なかなか破ってはいけないが、音楽は結構やぶってくれていい。というか、芸術は作法を破るのが、作法。だとしたら、実は芸術におけるその「作法」を破るのは至難の業である。
昨日、写真にも色々作法がある、と僕は思った。
「作法」、というとちょっと堅苦しい表現だから、ちょっと適切ではないが、それは「手法」という言葉では足りない。
なぜ足りないかは、この後徐々に説明したいと思う。
彼がまさに適切にも指摘したのが、「写真にも色々なジャンルがある。それは音楽と同じこと」という点。
なるほど、沢山見せてもらった写真は、それぞれ個性があり、技術的にも洗練されていて、感情を動かすものだったが、「写真の目的・狙い」、「撮る方法」、「刷る方法」、「伝わる情感」、「引き出されるロジック」・・・等がまるで違う。
それはロックとレゲエくらい違う。
そして、知の集積がすごい。すなわち、奥が深い、ということ。
見せてもらったなかに、アフガンの写真集があって(その写真集を全くありがたいことに僕はもらってしまったのだが)、それは僕のイメージするアフガンの写真とはかなり違ったのである。
色がきれい、というだけではなくて、悲哀よりも喜び、というかむしろファッショナブルな構図、が目を引いたのだ。
「紛争(後or中)社会に関するファッショナブルな写真」。
僕はアタマのなかに「報道写真、あるいは紛争社会写真かくあるべし」というのものがあったことに気がつく。
すなわち、「紛争地域の子供の笑顔はこう」、「お年寄りはこう」、「若者はこう」、「少女はこう」、「動物はこう」あるべし・・・!
僕はアフガンに行ったことがない。だから、一体現実がどうなっているのか知らない。
大事なことは、「じゃあ行きなさい」という単純な話ではなくて、行けない人がほとんどの社会のなかで(みんな、暇でもないし、使命感もないし、お金もないし、危険は嫌だし)、写真は一体何なのか、ということなのだ。
写真という一種の記号をどう捉えればよいのか、ということなのだ。
僕が見た写真集は、カメラマンが見たアフガンを撮っただけかもしれない。
しかし、僕にはそれが僕のアタマの中の報道写真の「作法」を揺さぶるという役割を果たすものだった。だから僕はその点において、その写真集をすごく評価したいと思った。
カメラマンによっては、写真に関して、自分が表現したい情感、あるいは写真を見たものに惹き起こしたい感情を目的しているかもしれない。
その情感は、美しいと思う気持ちだったり、切ないと思う気持ちだったり色々だ。
それもひとつ。
あるいは、伝えたいと思う彼らなりの「現実」を伝えたいという場合もあるだろう。
もしくは、相手の想像力を掻き立てたり、混乱に陥れたりしたい場合もあるだろう。
だが、いずれの狙いを持っていたとしても、大事なことは、写真が社会においてどのような記号として伝達されるかは別の話だということだ。
それは書いた文字と一緒。曲解され(背景の事実を勝手に想像)、ゆがめられ(印刷されるなかで大きさも変えられるし、一部が切り取られさえするかもしれない)、色を変えられたり(最悪、カラーが白黒に!)する。
だが、それも写真。いや、それこそ写真なのだ。
記号なんだら、自分ではもはや管理しきれない。
僕の友人は大事なことを言った。
「展示も作品なんだ。」
そう、撮っただけではまだ作品にはなっていない。
印刷も多様な技術がある。
しかし、そこでも話は終わらない。展示という作業がある。
それは必須ではもちろんない。
けれども、もし展示するなら、作者は確実に(第一次の)受け手に対して、記号としての写真を管理できるだろう。
すなわち、曲解、歪曲をかぎりなく避けられるのである。あるいは、バグや複製を生み出さないということかもしれない。
(だが、しばしばカメラマンは曲解を利用する場合もあるだろうけれども。)
写真の何たるかをわざかに叩き込まれ、僕は前よりもずっと写真が好きになりました。
よく飲み、よく話した、と思う。
特に昨日は、写真について勉強させてもらった。私の愛すべき友人が写真を本格的にやっていて、それで写真展やら写真集やら、彼の写真やらを沢山みせてくれて、沢山解説してくれたのである。
論文には論文の作法があり、音楽には音楽の作法がある。
論文のそれはとても厳しくて、なかなか破ってはいけないが、音楽は結構やぶってくれていい。というか、芸術は作法を破るのが、作法。だとしたら、実は芸術におけるその「作法」を破るのは至難の業である。
昨日、写真にも色々作法がある、と僕は思った。
「作法」、というとちょっと堅苦しい表現だから、ちょっと適切ではないが、それは「手法」という言葉では足りない。
なぜ足りないかは、この後徐々に説明したいと思う。
彼がまさに適切にも指摘したのが、「写真にも色々なジャンルがある。それは音楽と同じこと」という点。
なるほど、沢山見せてもらった写真は、それぞれ個性があり、技術的にも洗練されていて、感情を動かすものだったが、「写真の目的・狙い」、「撮る方法」、「刷る方法」、「伝わる情感」、「引き出されるロジック」・・・等がまるで違う。
それはロックとレゲエくらい違う。
そして、知の集積がすごい。すなわち、奥が深い、ということ。
見せてもらったなかに、アフガンの写真集があって(その写真集を全くありがたいことに僕はもらってしまったのだが)、それは僕のイメージするアフガンの写真とはかなり違ったのである。
色がきれい、というだけではなくて、悲哀よりも喜び、というかむしろファッショナブルな構図、が目を引いたのだ。
「紛争(後or中)社会に関するファッショナブルな写真」。
僕はアタマのなかに「報道写真、あるいは紛争社会写真かくあるべし」というのものがあったことに気がつく。
すなわち、「紛争地域の子供の笑顔はこう」、「お年寄りはこう」、「若者はこう」、「少女はこう」、「動物はこう」あるべし・・・!
僕はアフガンに行ったことがない。だから、一体現実がどうなっているのか知らない。
大事なことは、「じゃあ行きなさい」という単純な話ではなくて、行けない人がほとんどの社会のなかで(みんな、暇でもないし、使命感もないし、お金もないし、危険は嫌だし)、写真は一体何なのか、ということなのだ。
写真という一種の記号をどう捉えればよいのか、ということなのだ。
僕が見た写真集は、カメラマンが見たアフガンを撮っただけかもしれない。
しかし、僕にはそれが僕のアタマの中の報道写真の「作法」を揺さぶるという役割を果たすものだった。だから僕はその点において、その写真集をすごく評価したいと思った。
カメラマンによっては、写真に関して、自分が表現したい情感、あるいは写真を見たものに惹き起こしたい感情を目的しているかもしれない。
その情感は、美しいと思う気持ちだったり、切ないと思う気持ちだったり色々だ。
それもひとつ。
あるいは、伝えたいと思う彼らなりの「現実」を伝えたいという場合もあるだろう。
もしくは、相手の想像力を掻き立てたり、混乱に陥れたりしたい場合もあるだろう。
だが、いずれの狙いを持っていたとしても、大事なことは、写真が社会においてどのような記号として伝達されるかは別の話だということだ。
それは書いた文字と一緒。曲解され(背景の事実を勝手に想像)、ゆがめられ(印刷されるなかで大きさも変えられるし、一部が切り取られさえするかもしれない)、色を変えられたり(最悪、カラーが白黒に!)する。
だが、それも写真。いや、それこそ写真なのだ。
記号なんだら、自分ではもはや管理しきれない。
僕の友人は大事なことを言った。
「展示も作品なんだ。」
そう、撮っただけではまだ作品にはなっていない。
印刷も多様な技術がある。
しかし、そこでも話は終わらない。展示という作業がある。
それは必須ではもちろんない。
けれども、もし展示するなら、作者は確実に(第一次の)受け手に対して、記号としての写真を管理できるだろう。
すなわち、曲解、歪曲をかぎりなく避けられるのである。あるいは、バグや複製を生み出さないということかもしれない。
(だが、しばしばカメラマンは曲解を利用する場合もあるだろうけれども。)
写真の何たるかをわざかに叩き込まれ、僕は前よりもずっと写真が好きになりました。
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