それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

バレンティーナの誤解

2012-03-27 21:40:27 | イギリス生活事件簿
バレが僕をどのよう認識しているかはとても興味深い。

彼女は時々僕の服やカバンを褒めてくれる。

単なる世辞だと思っていたが、彼女は自身の友人に「彼、ちょくちょく良いセンスのものを着てるのよ」と言ってくれて、それで彼女が買った服やカバンを見せてはコメントを求めてくれる。

これは嬉しい評価だ。

しかし、完全に間違っている。

僕はお洒落ではない。

バレが褒めてくれたもので自分が選んだものがひとつもないからだ。

すべて僕の彼女が選んでくれたカバン、服、靴なのだ。

だから、僕のセンスは決して良くないのである。

でも、言いだせないぜ!

言いだすタイミング、逃したぜ!



彼女の興味深い僕への評価はこれだけではない。

彼女は僕のことを何となく子供だと思っている。

「小さな○○(僕の名前)、どう思う?」とか、

「かわいいねえ、おめかししてどこ行くの?」とか、

「沢山食べて大きくなりなさい!」とか、

「君は世界のマスコット!かわいい!」とか、

謎のセリフを言ってくる。

すぐにほっぺにチューしてくるようになったし。

アジア人は基本的にヨーロッパでは子供に見られる。

日本人にとってオジサンにしか見えない人でも、ヨーロッパでは子供に見られることがよくある。

たぶん、年齢認識の基準となるモデルが違うのだ。

要するに、顔の見方が違うのだ。

2年前聞いた、ある男性の話。彼は2児の父。僕から見ても、完璧なおじさん。でも、子供がいることをコースメイトに話したところ、「いつ結婚したんだ!子供なんて早すぎるぞ!」みたいなことを言われたとか。



別に問題はないのだが、しかしヨーロッパの社会ではコミュニケーションにおいて時々男性性が問題になる。

男性らしく振る舞い、男性同士の会話を楽しむ、という文化がはっきりとここではある。

日本でもあると言えばあるが、少し違う。

もっと男性であることを明確に意識している。

「ガールズトーク、オレ結構得意」みたいな勘違い野郎はここにはほとんどいない。

僕みたいな体格の、僕みたいな考え方の、僕みたいな顔の人間(ヒゲも一応生やしているのだが、効果は一切ない)は、そうした社会のなかで、今一度男性として振る舞う術を覚えなくてはいけない。

このことに気付いたのは去年のヨーロッパ人しかいなかったパーティでだった。

(ちなみに、イギリス人はまた大陸とは少し違うジェンダー観を持っているようだ。)

そのことはここにも何度か書いたと思う。

でも、今年は居心地が良い。

どう認識されていても、僕は僕なんだし、それをフラットメイトたちはきちっと受け入れている。

そこには誤解もあるだろうけれど、人間が人と人との関係で人格を構成されているとすれば(間主観的存在だとすれば)、ここでの僕は間違いなく、オリジナルなのだから。

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