それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

マイノリティの主体性の獲得?:アウトデラックス

2014-05-16 10:00:22 | テレビとラジオ
近年のテレビでは、文化人を含めて「素人」をプロの芸人がボケとして扱い、面白くするものが増えている。

そうした仕組みを取っているバラエティ番組は本当に多い。

けれど、そのなかにあって、「アウトデラックス」のやり方はずば抜けている。

この番組には、自閉症スペクトラムのなかで、知的障害があまりない人たちが沢山出てくる。

また、社会不適応になりかけている、おかしな「癖」(へき)をもった人びとも多く出てくる。

これまでテレビ番組では、そうした人々は登場しないか、登場しても「正常」の振る舞いを強制されるなどしてきた。

それを「アウト」というカテゴリーを使って、「面白い人たち」として表象するのが、この「アウトデラックス」なのである。

そもそも、司会者がマツコデラックスとナイナイ矢部。

コミュニケーションに障害を抱える登場人物たちを見事にさばいていく。



この番組には、テレビのプロも素人も両方登場する。

しかし、この番組が面白い瞬間は、登場人物たちが自分の言葉を心の底から出した瞬間だ。

テレビのプロは、皆、自分の役割を知っていて、話術のテクニックを基に言葉を出す。

そのテクニックを楽しむのが、視聴者の醍醐味である。

だが、プロアマ問わず、登場人物が心の底から「これが面白いんです!」「それは受け入れられない!」などと叫ぶ場面は、作り手の意図を超えて、奇妙なリアリティを生み出している。

レギュラーメンバーのひとり、瀬戸一樹の言動が私にはとても素晴らしく思えた。

彼は同性愛者の芸人なのだが、必ずしも同性愛の部分を売りにしているわけではない(そこが「アウト」の要因のひとつではあるが)。

見た目には全く愛嬌がなく、ひどくニヒルで、いつも不機嫌である。

他の登場人物に対する言葉は、冷静で客観的でしばしば批判的である。

その彼が時たま見せる自身の葛藤、そこから出てくる言葉の数々は、今までのバラエティで見たことのない、「何か」だった。

彼の苦悩は、心に訴えかけるものがありながら、同時にすこぶる笑えるところもあり、とても一言では言い表せない何か面白い瞬間だった。



日本では多様性がひたすら否定される傾向にあるが、このアウトデラックスの姿勢は社会的にマージナルな人々を「アウト!」と言いながらも、実質「肯定」しているように見える。

どんな有名な人でも、市井の人でも、みんな何らかのかたちで「アウト!」なのであり、それは単なるスペクトラムにすぎないのだと、この番組は伝えている。

もちろん、この番組が全てのマージナルな人を扱っているわけではない。

そこには新たな境界線、つまり、アウトデラックスですら呼べない本当の「アウト」と出られる「アウト(=セーフ)」の人々の境界線が登場している。

そうだとしても、僕はこの番組は素晴らしいと思うのだ。

いかなる社会においても、境界線はなくならないのだから、それに果敢に挑戦し、引き直し続けることしか、今我々に出来ることはない。

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