それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

Before Sunsetも観たよ:こっちはすごく好きでした

2011-06-28 19:12:30 | 日記
Before Sunriseに文句を相当つけたあと、私の精神状態はどんどん悪化し、これはいよいよまずいと思ったわけですが、このままではじり貧だということで、もう一度Before Sunriseを見ること、さらによりしっかり集中してみること、そしてBefore Sunsetも一緒に見ることを自らに課した今日でありました。



Before Sunriseはやっぱり二回目見てもイライラした。

Before Sunsetを見て、その理由がようやく分かってきたような気がする。

ここでもう一度、Before Sunriseのどの点にイライラしているかはっきりさせる。

もう一度否定的なことを書くので、読む場合、そのつもりで読んでもらえないだろうか。



Before Sunriseについては何度も言っているとおり優れているし、革新的だったということも積極的に認識している。

自分のイライラは自分の趣味の問題という非常に狭小な話だ。

その意味で本当に申し訳ない・・・。

物語において私が気になったのがイーサン・ホークだ。

Before Sunriseのなかで、こいつの話を何度繰り返し見ても聞いても、私はどうしても彼から「軽薄」という印象をぬぐうことが出来なかった。

この物語はいわばロマン100%で出来ている。

主人公ふたりはともに若く、互いに現実の社会に出る前のいわばモラトリアムの時期を謳歌した瞬間に、偶然出会い恋に落ちる。

物語は二人の会話の軽妙さと、彼らが話す自分たちのバックグラウンドのみの求心力で進んでいく。

私は個人的な趣向として、この軽妙さは好きではなく、彼らの話すバックグランドにもあまり興味を持てなかった。

だから、その時点で私はこの物語のロマンに乗ることができなかったため、イライラしてしまったのだ。



ところが、Before Sunsetは素晴らしかった。

なぜ素晴らしかったか。

まず設定上、二人はすでに現実の社会のなかで生活し、彼らが体験したロマンと幻想の世界とは対極的な世界で、多くの経験をしてきている。

だから会話の中身に重みがあり、別のリアリティがある。

まずヒロインについて。

環境保護団体に勤めている彼女は言うことがきわめてヨーロッパのコスモポリタン・エリートのそれだ。

社会に対する関心がきわめて高く、人道主義的でリベラル。僕がイギリスで沢山出会うエリートたちのエートスだ。

彼女のリアリズムと、相手の男性のあいかわらずのロマン主義が交差する。会話の中身が素晴らしい。

中身に意味があるとか無いとかというより、ロマンと幻想と記憶の世界とのコントラストが効いている。

男性は作家であり、いわば物語を紡ぐ人間。彼自身が過去のロマンチックな記憶に生きていることを示唆することで、男女のすれ違いの妙が際立つ。

だがこの物語が特に素晴らしいのは、後半ふたりが車に乗ってからだ。

彼女が抱えていた葛藤(そのあと、男性が抱えている現実の問題)が徹底的に描写されることで、物語は男女の単なるすれ違いの話を越えて、現実の社会とロマンチックな幻想との衝突と矛盾に至る。

前作と異なり、ここで物語は非常に奥行のあるものになる。

もはやここでイメージされるロマンは、モラトリアムを謳歌する学生のそれとは全く違う。

現実の社会に生き、傷つき、多くの葛藤を経たのち、もう一度取り戻されようとするロマンチックな物語。

主人公ふたりのぐっと老けた顔は、何よりも説得力がある(特にヒロイン役のジュリー・デルピー)。

それでこそ本当に美しい・・・(と私は感じた)。



秀逸なのは最後の場面。

完全ネタばれですけど、

「飛行機乗り遅れるわよ」をNina Simoneのモノマネで言ったヒロインに対して、男性が「分かってるさ」と返して終わり。

「分かってるさ」がグッとくる。

「分かっている」とは一体何を分かっているのか。

色々分かっているのだ。

それは現実の社会的葛藤、困難、そうしたものをすべてを「分かってるさ」ということなのだ。

同時にそれはロマンチックな世界がもう一度現実の社会に勝利する瞬間であり、だからこそ何より官能的なのだ。

映像がそこでばっさり切られるちゃうから、もう最高。

我々はありとあらゆる想像力を動員されざるを得ない。

前作と違い、曲終りがNina Simoneの深みのある声であることが、たまらなく官能的。

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