それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

謝辞の作法

2012-11-01 19:10:32 | 日記
博論を最初から最後まで、「大学院生の手引き」に沿って体裁を整える作業をしている。

ネイティブ・チェックはあともう一息だから、その間にその作業をやっておくことにした。

博論には色々な決まりがある。

単に字数の制限だけではなく、表紙の書き方から何から何まで体裁には厳しいのだ。

理由はこうだ。

毎年、沢山学生が大学で博士号を取る。もちろん、一学年で考えれば、大半の学生がドロップアウトして残ったものだけが博論を出すのだが、それでも何十年も何百年も続けば、博論は大変な量になる。

もしも、そうした人たちが全員バラバラの体裁で博論を出したらどうなるだろう。

書庫はぐちゃぐちゃで、整理しにくく、パッと見も美しくなかったり分かりにくかったりするだろう。

だから、博論には体裁に関する諸々のルールがある。それが結構ややこしい。



「手引書」を読むだけでは心もとないので、先輩方の博論をチェックすることにした。

今はネットが発達し、比較的気軽にダウンロードすることができる。

体裁が決まっているはずなのに、微妙に無視している人もいれば、まさに優等生のように完璧にルール通りの人もいる。

僕が「手引書」を読んだ時に完全に見逃していたことが一点あった。

「謝辞」だ。

謝辞を書くことを考えていなかった。出版したら書くんだろうとは思っていたが、博論にも謝辞に関する規定がある。

義務かどうかははっきりしないが、皆、一様に謝辞を書いている。



先輩たちの謝辞は内容も長さもそれぞれだが、基本的には指導教官などへの感謝の気持ちがつづられている。

感謝の表現はひとつではなく、いや、それどころか何種類もある(ひとつの謝辞で、同じ表現は基本的に二度使えない)。

今までそんなに感謝の表現を考えたことが無かったから、その英語はとても新鮮だった。

表現だけでなく、中身も興味深い。

彼ら彼女らが研究を始めた経緯に軽く触れてみたり、他の博士課程の人たちに感謝してみたり、まあとにかく、執筆者たちの思いがこもっているのである。

浮かれている、というわけではない。が、誰もが少なくとも喜びをもって書いている様子がうかがえる。

何せ通常4年以上かけて書き上げたものなのだ。謝辞は当然、その年月分の気持ちが入っているはずだ。



知り合いのミュージシャンがCDを作った時に、謝辞とか解説とかを全く入れておらず、そのことを尋ねたところ、

「そういうのって書くのは楽しいけど、内輪受けのノリが嫌いなんだよね。」

と言っていた。

今になってみると、その言葉なんだかよく分かるのだ。

もちろん、誰を書くか書かないかで、そのあと、色々面倒なことが間違いなく起こるため、入れる名前には注意が必要だ。

それだけではなく、どういう「ノリ」で、どういうスタイルで学問をやっているのか、ということもここで問われている。

そう僕は思っているのである。

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