消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(328) 韓国併合100年(6) 心なき人々(6)

2010-10-13 18:26:32 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 時代が下った一九一九年に、当時、朝鮮に在留していた日本人に対して、激越な批判を展開したもう一人の日本人を紹介しよう。

 
日本基督教会に属する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)教会に鈴木高志という牧師がいた。一九一九年三月一日の朝鮮における三・一独立運動直後の五月、彼は、日本基督教会機関誌『福音新報』(一九一九年五月八・一五日)に以下のような日本人批判を寄稿している。これも田中論文に通じる良識ある考え方で、今日の私たちにも感動を与える文である。

 鈴木論文は、長い格調高い旧文体ではあるが、現代的には読みにくいので、平たく要約させていただく。タイトルは「朝鮮の事変(独立運動)について」である。

 暴動は鎮圧できるであろう。しかし、鎮圧できないのが、朝鮮人の精神、つまり、彼らの排日思想である。排日思想という彼らの感情は根深い。
 そうした感情が生まれたのには、いろいろな要因がある。遠因としては、朝鮮人の対日軽蔑、倭寇への憎悪、豊臣秀吉への怒りがある。近因としては、併合への反感、日本の独善的(主我的)帝国主義への反発、政治的不満、経済的不安、社会的差別への反感、日本人の道徳のなさへの反感、などが考えられる。

 しかし、最も大きな要因は日本の主我的帝国主義への反発である。根本には日本の国是に対する反発がある。これは、朝鮮だけの反発ではない。中国、米国、豪州でも同じである。世界に存在している排日思想は、日本の主我的帝国主義が生み出したものである。それは日本の帝国主義が生み出している影である。影を憎む前に、先づ自身を省みる必要がある。「国威を海外に輝かす」、「大いに版図を弘める」、「世界を統一する」とかが日本の理想とされ、それを主義として進んできた結果が、隣近所をすべて排日にしてしまって、日本の八方塞がりを招いている。

 朝鮮人も人間である。国民的自負心もあり国家的愛着心もある。ところが、日本人は、愛国心を日本人のみの専売特許のように思い込んでいる。「日本主義」を謳って、日本人は、傍若無人に振る舞ってきた。そうするかぎり、日本に対する彼らの反感は止むはずはない。私たちは、このような日本主義的精神から脱(擺脱、ひだつ)して、「自分を愛するように隣人を愛する」という愛の道徳に立たねば、東洋での位置を確保できなくなるであろう。ところが、日本の学校では、倭寇、征韓の役の武勇伝が、年少者たちの血を沸かす題目になっている。朝鮮では、この題目が排日思想の種子蒔となっているのである。当然である。倭寇は、沿岸のいたるところで家を焼き、物を奪った。虎よりも恐しいものは日本人であった。征韓の役にいたっては、全国焦土となり、朝鮮はこの役以来、疲弊して復興することができなくなったのである。朝鮮人としては日本を恨まざるを得ないのである。

 にも拘わらず、日本の国民教育方針は一〇年経っても、二〇年経っても、依然としてこの主我的帝国主義の外に出ない。日本の教育における修身、歴史読本、唱歌のいずれの教育科目も、旧式日本の愛国心を鼓舞(涵養)するだけである。日本の愛国心は、自国本位、無省察、唯物的である。日本だけを知って、他国のことを考えないものである。その結果、海外に住むのに非常に不向きな日本人を造り出してしまった。朝鮮に来ている日本人は、婦女子にいたるまで威張ることのみを知って、愛することを知らない。取り立てることを知って、与えることを知らない。「われわれは日本人なり」とふんぞり返り、下に立つ道徳を知らない。それどころか、「上に立つ者は権力を握る」という意識で朝鮮人を圧倒し、蹂躙する。それが日本魂であるかのように心得ている。

 朝鮮人は、買物に行っても、役所に行っても、つまり、どこに行っても、日本人に敬愛されることがない。いつも、日本人によって蹂躙され、馬鹿にされ、虐げられているという感覚のみを味わう。併合への反感、総督政治に対する不満もある。日本人が資本の威力を発揮して、広大な土地を買い占め、利益を貪るのを見て、経済的不安の念に駆られ、日本人駆逐すべしと言う朝鮮人もいる。すべての朝鮮人は、社会的に悪く待遇されていることから日本人に反感を抱いている。だからこそ、今回の独立運動は、燎原の火の勢いで各地に波及したのである。その根本原因は帝国主義の中毒にある。今日の学校、今日の軍隊の教育方針では、水原事件(Suwon)のようなことが生じるのは必然である。いくら総督府で善政を布こうとしても駄目である。日本人の素質が変わらねばならないのである。

 例外はあるが、在鮮日本人の道徳には遺憾なる点が少なくない。大多数の日本人は、神を畏れず、恥を知らず、金儲け以上の高尚な理想を持っていない。鮮人の無知と貧乏とを奇貨とした悪辣な輩が多い。実業者の道徳の低さは内地でも困った問題であるが、そうした道徳の低い連中が日本の代表者である。たまったものではない。米国人などに日本が見くびられる一つの原因は彼らの不道徳である。日本の商人は量をごまかし、衡(はかり)をごまかしている。日本人が入って来たために、朝鮮人の道徳は甚だ悪くなった。この頃は鮮人もまた量や衡をごまかすようになった。

 男女間の道徳面での同胞の淫逸放蕩な様は慨嘆に耐え難い。公私宴会の醜態には驚くべきものがある。それを植民地の特権のように心得ている。私はある光景を見た。汽車に乗っていた時、某駅で、ドヤドヤと後から来たものがある。見れば、其地方の一部長(道長官の補佐役、内地でいう内務部長)と警務部長とが、あるべきことか、各々、左右から数名の酌婦に抱きかかへられて、佩剣(はいけん)を引ずり、酔歩漫跚(すいほまんさん)して、ようやく乗車した、否、させられた。しかも、発車するまで、白昼に、酌婦たちと戯れていた。見送りのために、郡守や憲兵隊長をはじめ、幾名かの役人が見ていた。多くの乗降客群が見ていた。その大多数は、白衣の鮮人であった。私は、実に恥かしかった。官吏にして然り。その他は推して知るべしである。

 こういう為体(ていたらく)でどうして朝鮮人の尊敬を得ることができるのだろうか。私たちは、朝鮮人が親日になってくれることを願う。しかし、親しむということは、相手に対する愛か敬があって、初めてできるものである。愛は、ただ、愛によって起こる。しかし、日本人は前述の通り、愛ということを知らない。どうして彼らに、私たちに対する愛が起こり得ようか。敬についてはどうか。日本人の今日の道徳をもってして、どのようにして、彼らの敬を要求することができようか。朝鮮問題を考えれば考えるほど、問題は精神的なものに移る。日本の国家的理想において、教育の方針において、国民個々の品性と道徳において、いずれも、根本的な革新が必要であることは明白である。日本は、どうしても、いま、生れ変らなければならないのである(『福音新報』第一二四六号、小川・池編[一九八四]、四五六~六一ページ)。

 彼の日本人批判を読むと、私たち日本人が九〇年経っても近隣の人々に対する姿勢においてほとんど進歩していないことを思い知らされる。