消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(345) 韓国併合100年(23) 心なき人々(23)

2010-10-29 20:08:28 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(9) 周知の史実であるが、韓国併合に関する基礎的な流れを簡単に整理しておきたい。①一九〇四年。日露戦争中の二月二三日、「日韓議定書」。日本が韓国施政忠告権や臨検収用権などを確保した。八月二二日、「第一次日韓協約」。韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。②一九〇五年。高宗(Kojong)はこれをよしとせず、三月にロシアに、七月にロシアとフランスに、一〇月に米、英に密使を送る。日本政府は、大韓帝国には、外交案件について日本政府と協議の上、決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考えた。日露戦争終結後の一一月一七日、「第二次日韓協約」。韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。乙巳の年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約、乙巳勒約と呼んだりする。締結当時の正式名称は「日韓交渉条約」。一二月二一日、漢城に統監府設置。③一九〇七年。七月一八日、ハーグ密使事件の発覚によって、日本政府は、高宗を退位させた。七月二四日、「第三次日韓協約」。高級官吏の任免権を日本の韓国統監が掌握すること、韓国政府の官吏に日本人を登用できることなどが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散、司法権と警察権の日本側への委任が定められた。④一九〇九年。六月一四日、韓国統監の伊藤博文が枢密院議長になり、副統監の曾禰荒助が統監になった。七月六日、適当な時期に韓国併合を断行する方針及び対韓施設大綱の閣議決定。憲兵・警察官の増派、日本人官吏の権限拡張が内容。七月二六日、「韓国政府の中央金融機関としての韓国銀行の設置を承認する」という日韓覚書。一〇月一八日、「警察署長・分署長に、拘留・科料以下の罪につき即決権を与える」という犯罪即決令公布。一〇月二六日、ロシア外相と会談のためハルビン駅に到着した伊藤博文(六九歳)が韓国人のクリスチャン、安重根(三一歳)に射殺された。⑤一九一〇年。三月二六日、安重根の死刑執行(三二歳)。二月二八日、小村寿太郎外相により在外使臣(外国駐在日本大使)に対し、「韓国併合方針及び施設大綱」を通報。五月三〇日、陸軍大臣、寺内正毅が韓国統監兼務。八月一六日、寺内正毅統監が韓国首相の李完用に韓国併合に関する覚書を交付。八月二二日、「韓国併合に関する条約」調印。「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定。八月二九日、韓国の国号を朝鮮と改称し、漢城を改称した京城に、朝鮮総督府を設置、当分の間、統監府も併置。八月二九日、「法律を要する事項を総督の命令で規定することを認める」法令公布。九月一二日、韓国統監府は、朝鮮の全政治結社を解散させる方針により、一進会に解散を命じ、解散費一五万円を支給。九月三〇日、「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布。九月三〇日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制公布。一〇月一日、三代目の韓国統監の寺内正毅が初代朝鮮総督。寺内正毅は陸軍大臣も兼任。一二月二九日、朝鮮における会社設立には、朝鮮総督府の許可制とするという朝鮮総督府による会社令制定、当然、朝鮮人に不利。⑥一九一一年。四月一七日、朝鮮総督府が、所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げるという土地収用令制定、その結果、朝鮮人農民は土地を失い没落。六月、朝鮮総督暗殺計画発覚、米国人宣教師との関係が問題となった(一〇五人事件、宣川事件)。七月一三日、「米国を協約の対象から除く」という内容の第三回日英同盟協約調印。⑦一九一二年。七月八日、特殊利益地域の分界線を内蒙古まで延長し、東側を日本、西側をロシアとするという内容の第三回日露協約調印。⑧一九一四年。七月二八日、第一次世界大戦勃発。⑨一九一六年。七月四日、「中国が第三国の政事的掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行う」という内容の第四回日露協約調印。⑩一九一七年。一一月、ロシア一〇月革命。⑪一九一八年。八月二日、シベリア出兵宣言。八月三日、米騒動。⑫一九一九年。一月一八日、パリ講和会議。三月一日、京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表。示威運動は朝鮮全土に拡大(三・一独立運動、万歳事件)。四月八日、陸軍省は、朝鮮の騒擾を鎮圧するため、内地より六個大隊と憲兵四〇〇人の増派を発表。四月一〇日、朝鮮の民族主義者は、上海に大韓民国臨時政府を樹立、国務総理には李承晩(Rhee Syng Man)。四月一二日、関東庁官制・関東軍司令部条例の公示。関東都督府の廃止、関東庁の設置、初代関東長官に林権助(はやし・ごんすけ)、関東州と満鉄の警備に都督府の陸軍部を独立させて関東軍の設置、関東軍司令官に立花小一郎(たちばな・こいちろう)、司令部は旅順(Lushun)、兵力は一個師団一万人。四月一五日、朝鮮総督府は、政治に関する犯罪処罰の件を制定、その内容は、「政治変革をめざす大衆行動とその扇動と厳罰に処する」というもの。五月五日、間島(Kan-do)日本領事館放火される。六月四日、朝鮮における日本の常備師団は二一個師団となった。八月一二日、海軍大将斉藤実を朝鮮総督に任命。九月二日、朝鮮総督の斎藤実、京城南大門(Kyonson Namdemun)駅で爆弾を投ぜられた。犯人は羌宇奎(Gang U Gyu)とされ処刑(岩波書店編集部[一九九一]、参照)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。