消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(334) 韓国併合100年(12) 心なき人々(12)

2010-10-19 19:08:39 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 五 併合前後の日英米露関係

 併合に至る道筋は、確実に敵を作る過程であった。日清戦争後、当時、征清総督府参謀長(後に陸軍大将に昇進)であった川上操六(そうろく)は、一八九七年一二月一日に、武昌(Wuchang)駐在の総督・張志東(Chang Chi-tung)に使節を送り、ロシアからの脅威を防ぐためには、日英と合体しなければならないと強要した(Lone[1991], p. 160)。つまり、日本は、この時点で英国と協同で東アジアを分割統治しようとしていたのである。一八九八年、米国がハワイを強引に併合してしまったのは、日本による領有を怖れていたからであるとローンなどは言う(Lone, ibid., p. 164)。太平洋はすでに一九世紀末から波が高くなっていたのである。

 一九〇五年九月五日のポーツマス条約以後、米国は、急速に中国大陸での利権確保の動きを見せるようになっていた。鉄道王のエドワード・ハリマン(Edward Henry Harriman)が、条約締結直後に来日して、ポーツマス条約で獲得した南満州鉄道の日本との共同経営を持ちかけた。ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)やサザン・パシフィック鉄道(Southern Pacific Railroad)の共同経営者であった銀行家のハリマンは、日露戦争中には日本の多額の戦時公債(一〇〇〇万円とも言われている)を引き受け、ポーツマス条約締結直後に訪日して、財政援助を持ちかけて、南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。日本側も乗り気でポーツマス条約で獲得した奉天(Fèngtian)以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定を結んだ(一九〇五年一〇月一二日)。桂とは、当時の首相・桂太郎のことである。この協定は、外相・小村寿太郎の反対により破棄されたが(一九〇五年一〇月二三日)、これは米国資本の満州への執着の強さを示すものであった(吉村[一九七九]、参照)。

 ハリマンの試みが挫折した後、今度は米国務長官のノックス(Philander Chase Knox)が、全満州鉄道の中立化計画を打ち出した。日露が支配する鉄道を清朝に譲渡し、列強の権益争いから中立化させるという名目であったが、鉄道の管理に米国資本の導入を意図していたのである(8)。

 その一方で、中国、とくに、満州から日本を追い出すためのあらゆる画策を米国は行ってきた。一九〇五年には「日本人・韓国人排斥同盟」(Japanese and Koreans Exchange League)が米国に結成された。それが、一九〇八年に「アジア排斥同盟」(Asiatic Exclusion League)になり、一九一三年のカリフォルニア州でアジア人排斥の法制化がなされ、一九二四年には「排日移民法」(US Restriction on Japanese Immigrants)に結実してしまうのである(Danniels[1962]、参照)。日本が自国移民の送り出し先をハワイや米本土から東アジアに振り替えることになったのも、米国の移民法のためである。自国の領域から日本人を排除しながら、米国は、東アジアでの権益確保に執心していた。

 日露戦争の勝利によって韓国での排他的権益をロシアに認めさせた日本は、さらに、一九〇七年七月三〇日、第一回日露協約を結び、ロシアと東北中国の勢力範囲分割に関する密約を交わした(信夫[一九七四]、第一巻、二三三~三四ページ、Matsui[1972], pp. 42-44)。日露会談はその後も定期的に継続されていた。

 このことは、英米を焦らせた。日露間で東アジアの分割が実施されることを怖れていたからである。

 一九〇八年二月には、英国の日本大使館は、米大統領のセオドア・ローズベルト(Theodore Roosevelt)の日本人不信が大きいことを伝えている。ローズベルトは言った。

 日本人がどんな遠隔地にも移民し、米国政府の寛大さに応えようともしない。もう日本に寛大さを示すことは止す。日本政府は日本人を日本国内に閉じ込めておくべきだと。

 ただし、ローズベルトのこの発言は、日本人嫌いの、上述の英国外務省駐日通信員のマッケンジーの報告にあるものなので、信頼に足りるものではない。しかし、外務省の公式文書でこうした悪意ある文が保存されていたことは、英国の対日警戒感を示すものである(一九〇八年二月の記録、F. O.[1908], 371/471, Lone[1991], p. 164)。

 米国政府の対日憎悪は凄まじかった。本稿の注8でも説明した「桂・タフト協定」の米国側の当事者、ウィリアム・ハワード・タフト (William Howard Taft)が、セオドア・ローズベルトの後を継いで、一九〇八年に米大統領に就任した。彼は、一八九八年の米西戦争(Spanish-American War)でスペインから米国に割譲されたフィリピンの文民政府の初代知事を務め(一九〇一~一九〇四年)、その後、セオドア・ローズベルトによって、陸軍長官に指名された。陸軍長官時代に訪日して、件の「桂・タフト協定」を日本と結んだ。

  そして、ローズベルトから指名されて大統領になったのである。大統領になったタフトは、国務長官(Secretary of State)にフィランダー・ノックス(Philander Knox)を指名し、対アジア政策チームを英国外務省からのアドバイスで作り、その長に筋金入りの日本人嫌いであるF・ウィルソン(F. Huntington Wilson)を据えた(Esthus[1966], pp. 240-41)。