消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(344) 韓国併合100年(22) 心なき人々(22)

2010-10-28 20:04:09 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(6) 『京城日報』は、一九〇五年の日露講話のポーツマス条約によって、日本の支配下に置かれた韓国で、京城(Gyeong-seong)に設置された朝鮮統監府の機関紙として創刊された新聞である。初代統監に就任した伊藤博文は、韓国統治に必要な有力新聞が必要であるとして、旧日本公使館機関紙『漢城新報』(一八九五年創刊)と『大同新報』(一九〇四年創刊)を買収統合、統監府の機関紙として『京城日報』を一九〇六年九月一日に創刊した。初代社長は大阪朝日新聞出身の伊東祐侃(ゆうかん)。一九一〇年の韓国併合により、統監府は総督府に改組され、朝鮮統治における『京城日報』の役割を拡大させるべく、『國民新聞』社長の徳富蘇峰(猪一郎)を監督として迎えている。日本の敗戦により、一九四五年一〇月三一日をもって日本人の手を離れて韓国人が事業を引き継いだが、同年、一二月一一日付を最後に廃刊となった(http://newspark.jp/newspark/data/pdf_siryou/c_34.pdf)。親日的指向の強い論調を張っていて、社長の任命や運営に関しても、総督府が主導権を握っていた。『朝鮮日報』や『東亜日報』など民間紙と比較しても、規模や影響力は大きかった(李錬[二〇〇六])。

(7) 内田良平(一八七四~一九三七年)。福岡県出身。頭山満(とうやま・みつる)の門下生であった叔父の平岡浩太郎によって創設された「玄洋社」に入り、一八九四年に「東学党の乱」が発生するや、玄洋社の青年行動隊として韓国に渡り、これに参加した。フィリピン独立運動、中国革命の支援運動などにも参加。一九〇一年一月、「黒龍会」を設立し、一九三一年には「大日本生産党」を結成し、総裁となった。黒龍会は、玄洋社と並ぶ右翼運動の思想的源流となった(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%E2%C5%C4%CE%C9%CA%BF)。韓国の農業近代化に打ち込むべきであると、内田は、伊藤統監と一進会を説得したらしい(Lone[1988], pp. 117-20)。

 木内重四郎(一八六六~一九二五年)。千葉県出身。法制局参事官試補、貴族院,内務省、農商務省商工局長を歴任後、統監府農商工部長官になる。総督府を依頼免官後、貴族院議員となる。一九一六年京都府知事となるが、汚職の嫌疑、いわゆる「豚箱事件」で収監されるが無罪となる(http://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E5%86%85%E9%87%8D%E5%9B%9B%E9%83%8E)。

 杉山茂丸(一八六四~一九三五年)。福岡県生まれ、夢野久作(ゆめの・きゅうさく、本名・杉山直樹)の父。自由民権運動で頭山満と出会い玄洋社結成を助ける。日露戦争中にレーニンの帰国を計画し成功させるなど、明治維新以後の内外の大事件や運動の多くに関係していた。公職に就くことなく、あくまで黒幕として政財界で活躍した(http://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8)。

(8) 当時の米国資本は、日本が得た満州の権益に割り込もうと活発な政治工作を展開していた。まず、米陸軍長官のウィリアム・ハワード・タフト (William Howard Taft)が、フィリピン訪問の帰途、一九〇五年七月二七日に来日し、日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と会談した。小村寿太郎がポーツマス条約締結のために、米国に出張していたので、桂が臨時外務大臣を務めていたのである。「桂・タフト協定」が両者間で交わされた(日付は七月二九日)。それによれば、米国は韓国における日本の支配権を確認し、交換条件として、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。しかし、これは、正式の協定ではなく、両者の秘密合意であったので、一九二四年まで公表されなかった。さらに、東アジアの秩序は、日、米、英の三国による事実上の同盟によって守られるべきであるとされた。桂は、この時に、韓国が日露戦争の原因であると明言した。そして、韓国政府を単独で放置し、他国と協定を結ぶことを許してしまえば、日本が再度、別の外国との戦争に巻き込まれることになるだろうとも述べた(長田[一九九二]、参照)。

 ポトマック河畔の桜は、タフトが大統領になり、その在職中に東京市長・尾崎行雄から贈られたものである。

 タフトの訪日に続いて一九〇五年八月三一日に来日したハリマンは、単に南満州鉄道を買収するだけでなく、それを起点にシベリア鉄道を経てヨーロッパへ、さらに汽船連絡によって世界一周鉄道を実現するという壮大な構想を持っていた。

 当時日本の政府には日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、元老をはじめ桂内閣も米国資本の導入を渡りに船と歓迎したのである。話合いは、順調に進み、一九〇五年一〇月一五日には、日米平等のシンジケートを経営体とする南満州鉄道運営に関する予備覚書が、 桂首相とハリマンの間に交換された。ハリマンは喜び勇んで帰国の船に乗った。しかし、ポーツマス講和会議から入れ替わりに帰国した首席全権・小村寿太郎は、これに猛然と反対し、ついにその契約を破棄させた。満鉄の自主経営を可能にする資金の手当がモルガン系銀行によって保証される約束を小村が得ていたからである。ハリマンは船がまだサンフランシスコへ着く前に、予備協定破棄を電報で知らされて激怒した(袖井[二〇〇四]、一五ページ)。

野崎日記(343) 韓国併合100年(21) 心なき人々(21)

2010-10-28 19:25:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 注

(1) 朝鮮(Chosun)と韓国(Hanguk)との呼称について記す。李氏(I-si)朝鮮は、一三九二年、高麗(Goryeo)の武将、李成桂(Yi Seong Gye)太祖(Taejo)が恭譲(Gongyang)王を廃して、自ら高麗王に即いたことで成立した。李成桂は、翌一三九三年に中国の明(Ming)から朝鮮という名称を付与され(権知朝鮮国事)、国号をそれまでの高麗から朝鮮に改めた。一四〇一年、太宗(Taejong)が明から朝鮮国王として冊封を受けた。そして、日清戦争終結後、日本と清(Qing)国との間での下関条約によって、朝鮮に対する清王朝の冊封体制が廃止され、朝鮮は一八九七年に国号を大韓帝国(韓国)に改められた。朝鮮国王も韓国皇帝に改称された。しかし、一九一〇年の「韓国併合に関する条約」によって、韓国は日本に併合させられてしまった。この時の韓国は、いまの朝鮮人民民主主義共和国を含む半島全体の呼称だった。従って、併合は朝鮮・韓国併合ではなく韓国併合が正しい。ちなみに、日韓併合という用語は通称である。

(2) ハングルへの翻訳に携わったのは、スコットランド出身で、満州に赴任していたジョン・ロス(John Ross)であった(Grayson[1984])。

(3) 韓国併合前までの韓国におけるミッション・スクールについては、Paik[1919]がある。韓国でキリスト教が急速に普及した理由についての論争史については、Grayson[1985]に詳しい。

(4) 一進会は、一九〇四年から一九一〇年まで韓国で活動していた当時最大の政治結社。宮廷での権力闘争に幻滅し、外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を実現させようする「開化派」の人々が設立した団体。日清・日露戦争に勝利した日本に接近し、日本政府から特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる)を唱えた。韓国併合後、統監府から金銭取引を行った後、解散した(ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%88%EA%90i%89%EF)。
 一進会の創始者、宋秉(一八五七~一九二五年)は、一八七三年から司憲府(Sahonbu)に務めた後、一八八四年、密命を受けて金玉均暗殺目的で日本に渡ったが、逆に説得されて金の同志になった。日露戦争時に、日本軍の通訳として親日に転向し、一進会を組織した。一九〇七年のハーグ密使事件の際には、高宗皇帝譲位運動を展開、高宗を退位に追い込んだ。同年、李完用内閣が成立すると、農商工部大臣・内相を勤めながら、「韓日合邦を要求する声明書」を曾禰荒助(そね・あらすけ)統監、李完用首相に提出した。併合後は、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に伯爵となった。没後に正三位勲一等を追贈された(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%A7%89%E7%95%AF)。

(5) 尹致昊(一八六五~一九四五年)は、李氏朝鮮末期の政治家。韓国併合後に男爵(朝鮮貴族)・貴族院議員。一八八一年、朝鮮初の日本留学生(慶應義塾に留学)。帰国後、甲申政変に開化派として参加するが、開化派が敗北すると上海に逃れた後に米国に留学。上海滞在時にメソジストの洗礼を受けたが、米国留学時に苛酷な人種差別を受けたと言われている。帰国後、一八九六年に独立協会(Tongnip Hyeophoe)を結成。『独立新聞』(Tongnip Sinmun)を創刊し、朝鮮人による自力の近代化を説いた。やがて政権に迎えられ、第一次日韓協約締結時には外部大臣署理を務めた。韓国併合後、一九一一年に一〇五人事件(本稿、注9、参照)の首謀者として起訴され、男爵位を剥奪されるが、一九一五年に親日派に転向して釈放される。三・一独立運動が勃発した際にも「もし弱者が強者に対して無鉄砲に食って掛かったら強者の怒りを買って結局弱者自体に累が及ぶ」と否定的なコメントを残している。その一方で熱心なクリスチャンだったため、朝鮮キリスト教界の最高元老としても影響力を保持していた。また、彼の説いた「実力養成論」は後の独立運動家にも多大な影響を残し、一方で民族資本家や民族教育機関を育てる契機にもなった。一九四五年の日本の敗戦によって、それまでの親日的姿勢・行為を糾弾されたために自殺した(梁[一九九六]、参照)。