消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(331) 韓国併合100年(9) 心なき人々(9)

2010-10-16 18:50:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 明治政府が、「韓国併合に関する件」を閣議決定したのが、一九〇九年七月六日であった。

 「韓国を併合し之を帝国版図の一部となすは我が実力を確立するための最確実なる方法たり。帝国が内外の形成に照らし適当の時期において断然併合を実行し半島を名実共に我が統治の下に置き諸外国との条約関係を消滅せしむるは帝国百年の長計なりとす」(吉岡[二〇〇九]、六七ページより引用)。

 これは、日本が、韓国併合でアジアの列強として欧米に認知させ、当時の不平等条約改正を一〇〇年の計として狙っていたことが率直に吐露された決議である。
 一九〇九年七月六日の閣議決定を受けて、各国との調整を始めた明治政府は、一〇月伊藤博文をロシアとの交渉に当たらせた。しかし、一九〇七年七月二四日、日本軍の武力で威嚇的に調印させられた「第三次日韓協約」で軍隊を解散させられた韓国では、両班(Yangban)層とクリスチャンたちが義兵(Uibyeong)闘争を本格的に展開することになった。

 その典型が、両班出身で、カトリック信者であった(An Jung Geun、一八七九~一九一〇年)である。彼のクリスチャン・ネームはトマス・アン(Thomas An)であった。東学(Tonghak)に反対していた安は追われてカトリックに属するパリ外国宣教会(Société des Missions Etrangères)のジョゼフ・ウィレム(Nicolas Joseph Marie Wilhelm)司祭に匿われて洗礼を受けた。そして、安は、一九〇七年大韓帝国最後の皇帝・高宗の強制退位と軍隊解散に憤激し、ウラジオストクへ亡命、抗日闘争に身を投じる。そして、一九〇九年一〇月二六日、ハルピン(哈爾浜、Harbin)駅構内において、ロシア蔵相のウラジーミル・ココフツォフ(Vladimir Nikolayevich Kokovtsov)と会談するために現地に赴いていた伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)に対し安重根は群衆を装って近づき拳銃を発砲、大韓帝国の国旗を振り韓国独立を叫んだ。留置中に伊藤の死亡を知った際、安重根は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生をわが祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという(Keene[2002], pp. 662-67)。

 一九一〇年八月二二日、日韓両政府の間で「韓国併合に関する条約」の調印があった。条約の第一条には、韓国皇帝による日本皇帝への「統治権の譲与」が明記された。文面は、

 「第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」、「第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」
という韓国側の尊厳を踏みにじる冷酷なものであった。ここに、李朝五〇〇年の歴史が事実上閉じた。その一か月後、勅令「朝鮮総督府官制」により、朝鮮総督府が設置され、それまでの統監・寺内正毅(てらうち・まさたけ)がそのまま初代朝鮮総督に任命された。
 「併合」という用語は、当時、一般的なものではなかった。この用語は、一九〇九年三月に、外務省政務局長・倉地鉄吉が、外相・小村寿太郎の命で作成した「対韓大方針」草案の中で使われていた。対等の合邦でもなく、さりとて、完全隷属させるという雰囲気を避けつつ、日本が韓国を支配下に置くという政治的に配慮した用語が「併合」であった(海野[一九九五]、二〇九ページ)。ちなみに、一八九五年の台湾割譲は、清朝のお膝元を意味する「直隷」が日本の直轄地に変更されたという意味で「改隷」という用語が使われた。

 当時、伊藤博文は併合には躊躇していた。この点を次節で確かめておきたい。