消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(326) 韓国併合100年(4) 心なき人々(4)

2010-10-11 18:20:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 このように緊迫した時期に外相の陸奥による上記の指示が出されたのである。それは、開戦の口実を探せという、とんでもない命令であった。陸奥の指示を受けた大鳥圭介(おおとり・けいすけ)公使は即座に行動した。七月二〇日、大鳥公使は、朝鮮政府に対し、朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退と清朝間の「宗主・藩属関係」の解消について、三日以内に回答するように申し入れた。七月二二日夜、朝鮮政府は、「改革は自主的に行う」、「乱が治まったので日清両軍には撤兵してもらう」という当然の内容の回答を大鳥公使に渡した。

 ただちに日本軍は行動を起こした。七月二三日午前二時、日本軍の二個大隊が漢城の電信線を切断し、朝鮮王宮の景福宮を占領した。そして、政府内の閔氏一族を追放した上で、閔氏によって追放させられていた興宣大院君(Heungseon Daewongun)を担ぎ出して新政権を樹立した。朝鮮の新政権から日本に清軍撃退を要請させるためであった。日清両軍が朝鮮内で衝突があった後、八月一日、日清両国は宣戦布告をした(藤村[一九七三]、参照)。

 口実を設けて、清を叩く戦争を狙い通り起こすことに陸奥は成功した。しかし、その行為は、「資質において傑出」しているとは、とても言えるものではない。

 日清戦争によって、朝鮮から清の勢力を排除した日本であったが、朝鮮の単独支配には成功しなかった。閔氏一族がロシアの支援を受けて朝鮮で復権してきたからである。それを阻止すべく、王妃の閔妃(Minpi)虐殺事件が起こり(一八九五年一〇月)、親日政権ができた。親露、親日派による血みどろの内紛の後、一八九七年に、それまでの国王・高宗(Kojong)を皇帝とする新政権が成立し、大韓帝国という国号になった。そして、新政権は、一九〇〇年、ロシア人顧問を退去させ、日本に対して新生韓国の中立維持の交渉を開始した。ロシアも一九〇一年に韓国の中立を保証する協議を日本に提起したが、日本はロシアの申し込みを拒否した。新たに国号を改称した韓国の単独支配を日本は狙っていたからであるのは言うまでもない。

 一九〇二年に日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が成立する。英国からの全面的支援を受けることになった日本は、その翌年の一九〇三年、強硬姿勢で日露交渉に向かうことになった。韓国における日本の権益確保については、一切、ロシアに文句を言わさず、満州においては多少、ロシアに譲歩するというシナリオであった。交渉が決裂すれば、対露開戦に踏み切ることも視野に入れた交渉だったのだろう。事実、一九〇四年二月、日本は交渉を一方的に打ち切り、ロシアに宣戦布告をした(一九〇四年二月六日)。

 対露戦争に踏み切る一方で、日本は韓国に軍を進めた。日露戦争に対して、ただちに局外中立を宣言した韓国に圧力をかけるべく、一九〇四年二月二三日に「日韓議定書」を締結した。さらに、八月、「第一次日韓協約」を強要して韓国の内政・外交のほとんどを、日本が掌握することになった。日露戦争を遂行する最中に日本は着々と韓国の植民地化を進めていたのである。政治に介入しただけではない。抗日闘争の強かった地区に対して、日本は、軍事的占領を行った。それだけではない。日露戦争を遂行すべく、韓国の各地で労役・物資の調達、土地の収容なども行ったのである。

 日露戦争後のポーツマス講和条約(一九〇五年九月)によって、日本は、ロシアに、日本による韓国の単独支配を認めさせた。そして、一九〇五年一一月一七日、「第二次日韓協約」によって、韓国を完全に保護国化してしまった。保護国とは、国際法上、国家主権を無くした国のことである。ただし、保護国にしてしまうには、韓国と公使などを交換し合って外交関係を持つ諸国の同意を得る必要がある。日本は、米国のフィリピン領有、英国のインド領有を認める代わりに、韓国の保護国化を英米に認めさせたのである(高井[二〇〇九]、一二ページ)。

 「第二次日韓協約」は、軍事的威嚇下で強要されたもので、無効であると皇帝の高宗が諸外国に働きかけていたことを理由に、一九〇七年高宗の廃帝、軍隊の解散を日本は強行した。当然、韓国人による抗日闘争は激化した。一九〇七年から韓国併合が行われる一九一〇年までのわずか三年間で、韓国人の義兵と日本軍との抗戦回数は、二八〇〇回を超えたという(高井[二〇〇九]、一三ページ)。