消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(346) 韓国併合100年(24) 心なき人々(24)

2010-10-29 20:09:43 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(10) 寺内正毅初代総督は、一九一一年に「寺刹令」(じさつれい)」を発布し、「寺刹の本末関係、僧規、法式その他必要なる寺法は各本寺においてこれを定め朝鮮総督の認可を受くべし」(第三条)として、当時約九〇〇あった朝鮮仏教の寺院を監督下に置いた。朝鮮仏教徒は抵抗した。そして、一九一五年の「布教規則」によって、「朝鮮総督は現に宗教の用に供する教会堂、説教所または講義所の類において安寧秩序をみだすのおそれある所為ありと認むるときはその設立者または管理者にたいしこれが使用を停止または禁止することあるべし」(第一二条)と、すべての宗教を統制しようとしたのである。そして、日本の宗教団体の朝鮮における布教を総督府は後押しし、朝鮮宗教の日本同化を図った。三・一事件は、朝鮮の民俗宗教の天道教(東学)やキリスト教、仏教の指導者が会合して「独立宣言」をまとめたことを発端としている。この宣言文は天道教印刷所で印刷され、宗教組織網で朝鮮の主要都市に運ばれた。この宣言が一九一九年三月一日に発表され朝鮮民衆の独立運動の烽火となった。総督府が、朝鮮人の埋葬慣習を無視し、墓地を取り上げ、荒れ地を共同墓地に指定して墓を移転させたことなどへの朝鮮人の怒りが大きかったと言われている(中濃[一九七六]、http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-12-15/2007121512_01faq_0.html)。

(11) 北部長老派は平壌を中心とした平安道(Pyeongan-do)と慶尚北道(Gyeongsangbuk-do)を布教の拠点にし、南部長老派は、全羅道(Jeolla-do)が拠点であった。メソジストは京畿道(Gyeonggi-do)、忠清北道(Chungcheongbuk-do)、江原道(Gangwon-do)南部に拠点を置いていた。このように、米国のプロテスタント教会は地域的な棲み分けを行っていたようである(朝鮮総督府[一九二一]の付録地図参照)。

(12) ブルーダー『嵐の中の教会』という本がある(Bruder[1946])。ナチス支配下、ドイツのある村の教会の牧師が戦争非協力者として捕えられ、小さな教会は厳しい試練に遭遇した。多くの教会が戦争に加担して行くことになったが、このような戦争をすべきではない。ポーランド人やユダヤ人などの弾圧を止めるべきだと訴えるクリスチャンたちは、告白教会を組織して、地下抵抗運動をも繰り広げた。『嵐の中の教会』には、この村の教会が受けた試練の数々と、聖書の教えに則り、神への信仰によって、苦難を乗り越えて行った様子が書かれている。告白教会は、ドイツ・ルター派(福音ルーテル派)の牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906 - 1945)によって、一九三四年に結成された"Bekennende Kirche"である。この教会は、ドイツの多くのプロテスタントがナチスに追随したことに反抗して組織されたものである。

(13) 米国留学から帰国した一八八八年の二年後の一八九〇年、内村鑑三は第一高等中学校の嘱託教員となった。翌、一八九一年一月九日、講堂での教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼を行わなかったことが同僚や生徒などによって非難された。敬礼はしたのだが、最敬礼でなかったことが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、二月に依願解嘱した(http://socyo.high.hokudai.ac.jp/LSci07/Uchi2.htm)。

 


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