消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(339) 韓国併合100年(17) 心なき人々(17)

2010-10-24 19:39:48 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 民間レベルではなく、国家が全面的に普及に乗り出したのが国家神道である。国家神道は、宗教の上位に置く一種の国教的な色彩を持つものであった(佐木[一九七二]、二七〇ページ)。大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていたが、政府は、上述のように、神道は宗教ではない(神社非宗教論)という解釈を押し通し、官幣社は内務省神社局が所管し、新たな官幣社の造営には公金が投入された。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われた。神道を梃子とする内鮮一体化の試みがが本格化したのである。

 「海外神社」という用語を創った小笠原省三は、率直に米国からの宣教師の活動が朝鮮人の反日感情を増幅しているとして、神道の朝鮮への導入を本格化すべきであると主張していた。そのためにも、「日鮮同祖論」による「内鮮融和」が必要だと説いた。そして、小笠原は、排日移民法を成立させた米国を「醜悪なヤンキーイズム」と侮蔑していた(小笠原[一九二五]、菅[二〇〇四]、一五五ページ)。

 「内鮮一体化」は、一九三〇年代に入って日本の支配層の主たるイデオロギーになった。とくに、一九三五年一月一六日、当時の朝鮮総督・宇垣一成(うがき・かずしげ)は「心田開発」という新造語によって、朝鮮人に、心の田を開発する運動を展開することを呼びかけた。物的生活の向上も大事だが、精神的な豊かさを持つことも大事である。物心両面において安心立命の境地に立って、半島は初めて楽園になるという、まことに得て勝手な思いつき論を臆面もなく現実の政策として実現させたのである。宇垣の命によって、一年後の一九三六年一月一五日、「心田開発委員会」が設置された。この委員会が神社への強制参拝の推進者になったのである(菅[二〇〇四]、一七四~七五ページ)。

 さらに、一九三八年四月、朝鮮総督・南次郎が、「内鮮一体化」を口実として、廬溝橋事件(一九三七年七月七日、七七事変=Qi Qi Shibian)一周年の一九三八年七月七日、「国民精神総動員朝鮮連盟」を結成した。この連盟は、各団体ごとに神社に強制参拝させる大きな力を発揮した(菅[二〇〇四]、一八七ページ)。

 御神体などが祀られている祠(ほこら)や社(やしろ)など、神道の形式に則って御神体が祀られている施設を神祠(しんし)というが、この神祠が、一九三九年以降、猛烈な勢いで朝鮮で創設された。菅が引用している資料によれば(菅[二〇〇四]、一八六ページ。原資料は、『朝鮮総督府官報』、韓国学文献研究所覆刻版、彙報欄)、一九一七~一九二六年までに創設された神祠は七〇であったのに、一九二七~一九三六の次の一〇年間には、一八二になった。その後、加速度的に増え、日中戦争に突入して行く時代になると、一九三九~一九四一年のわずか三年間で四五五も設立されたのである。如何に日本の権力者が、神道による内鮮一体化に血道を上げていたかが、この数値によって窺い知ることができる。

 当時、日本の権力者たちが重用していた日本の知性は、こうした精神総動員運動を賛美していた。例えば、柳田国男は書いた。

 「日本の二千六百年は、ほとんど一続きの移住拓殖の歴史だったと言ってもよい。最近の北海道・樺太・台湾・朝鮮の経営に至るまで、つねに隅々の空野に分かち送って、新たなる村を創出せしめる努力があったことは、ことごとく記録の上で証明せられてゐる。神をミテグラによって迎え奉ることがもしできなかったら、どのくらい我々の生活は寂しかったかも知れない。だから今でもその心持ちが、朝鮮神社となり、また北満神社となって展開しているのである」(柳田[一九四二]、八七~八八ページ)。

 ここで、「ミテグラ」と呼ばれているものは、「幣帛」と書く玉串のことであり、榊(さかき)に紙垂(かみしで)をつけて神に捧げるための供え物で、神への恭順の心を表し、神とのつながりを確認するためのものである。紙垂は神の衣を、榊は神の繁栄を表す象徴である。柳田は、朝鮮神宮に対して無邪気に高い評価を与えているのである。

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