消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(343) 韓国併合100年(21) 心なき人々(21)

2010-10-28 19:25:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 注

(1) 朝鮮(Chosun)と韓国(Hanguk)との呼称について記す。李氏(I-si)朝鮮は、一三九二年、高麗(Goryeo)の武将、李成桂(Yi Seong Gye)太祖(Taejo)が恭譲(Gongyang)王を廃して、自ら高麗王に即いたことで成立した。李成桂は、翌一三九三年に中国の明(Ming)から朝鮮という名称を付与され(権知朝鮮国事)、国号をそれまでの高麗から朝鮮に改めた。一四〇一年、太宗(Taejong)が明から朝鮮国王として冊封を受けた。そして、日清戦争終結後、日本と清(Qing)国との間での下関条約によって、朝鮮に対する清王朝の冊封体制が廃止され、朝鮮は一八九七年に国号を大韓帝国(韓国)に改められた。朝鮮国王も韓国皇帝に改称された。しかし、一九一〇年の「韓国併合に関する条約」によって、韓国は日本に併合させられてしまった。この時の韓国は、いまの朝鮮人民民主主義共和国を含む半島全体の呼称だった。従って、併合は朝鮮・韓国併合ではなく韓国併合が正しい。ちなみに、日韓併合という用語は通称である。

(2) ハングルへの翻訳に携わったのは、スコットランド出身で、満州に赴任していたジョン・ロス(John Ross)であった(Grayson[1984])。

(3) 韓国併合前までの韓国におけるミッション・スクールについては、Paik[1919]がある。韓国でキリスト教が急速に普及した理由についての論争史については、Grayson[1985]に詳しい。

(4) 一進会は、一九〇四年から一九一〇年まで韓国で活動していた当時最大の政治結社。宮廷での権力闘争に幻滅し、外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を実現させようする「開化派」の人々が設立した団体。日清・日露戦争に勝利した日本に接近し、日本政府から特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる)を唱えた。韓国併合後、統監府から金銭取引を行った後、解散した(ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%88%EA%90i%89%EF)。
 一進会の創始者、宋秉(一八五七~一九二五年)は、一八七三年から司憲府(Sahonbu)に務めた後、一八八四年、密命を受けて金玉均暗殺目的で日本に渡ったが、逆に説得されて金の同志になった。日露戦争時に、日本軍の通訳として親日に転向し、一進会を組織した。一九〇七年のハーグ密使事件の際には、高宗皇帝譲位運動を展開、高宗を退位に追い込んだ。同年、李完用内閣が成立すると、農商工部大臣・内相を勤めながら、「韓日合邦を要求する声明書」を曾禰荒助(そね・あらすけ)統監、李完用首相に提出した。併合後は、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に伯爵となった。没後に正三位勲一等を追贈された(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%A7%89%E7%95%AF)。

(5) 尹致昊(一八六五~一九四五年)は、李氏朝鮮末期の政治家。韓国併合後に男爵(朝鮮貴族)・貴族院議員。一八八一年、朝鮮初の日本留学生(慶應義塾に留学)。帰国後、甲申政変に開化派として参加するが、開化派が敗北すると上海に逃れた後に米国に留学。上海滞在時にメソジストの洗礼を受けたが、米国留学時に苛酷な人種差別を受けたと言われている。帰国後、一八九六年に独立協会(Tongnip Hyeophoe)を結成。『独立新聞』(Tongnip Sinmun)を創刊し、朝鮮人による自力の近代化を説いた。やがて政権に迎えられ、第一次日韓協約締結時には外部大臣署理を務めた。韓国併合後、一九一一年に一〇五人事件(本稿、注9、参照)の首謀者として起訴され、男爵位を剥奪されるが、一九一五年に親日派に転向して釈放される。三・一独立運動が勃発した際にも「もし弱者が強者に対して無鉄砲に食って掛かったら強者の怒りを買って結局弱者自体に累が及ぶ」と否定的なコメントを残している。その一方で熱心なクリスチャンだったため、朝鮮キリスト教界の最高元老としても影響力を保持していた。また、彼の説いた「実力養成論」は後の独立運動家にも多大な影響を残し、一方で民族資本家や民族教育機関を育てる契機にもなった。一九四五年の日本の敗戦によって、それまでの親日的姿勢・行為を糾弾されたために自殺した(梁[一九九六]、参照)。


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