消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(341) 韓国併合(19) 心なき人々(19)

2010-10-26 19:49:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一九二五年、総督府は、崇実カレッジを大学から各種専門学校に格下げした。これに対して、崇実側は、朝鮮初の三年制の農学教科の新設を申請した。

 
そして、一九二八年九月、先述のマッカンが学長になった。一九三一年には農学部の新設が許可された。しかし、マッカン校長が退去させられた後、一九三六年、米国北部長老教会の宣教本部(mission headquarters)が、総督府の宗教政策に反対して同会が運営する学校閉鎖を決定した。一九三八年三月、崇実校は、最後の卒業生を送り出して閉校となった。総督府による神社参拝に強力に反抗し続けていた崇実校も、三九年の歴史を閉じたのである(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。

 北部米国長老派の朝鮮における学校閉鎖の決定を受けて、南部長老派も、一九三七年九月、同じく朝鮮における学校を閉鎖した。

 しかし、ミッション系の学校教育を完全に閉じてしまっていいのかとの論争がクリスチャンの間で闘わされた。一九三七年、朝鮮のメソジストは神道祭礼に形式的に参加することによって、学校を残す方針を採った。その方針は、翌、一九三八年六月、本国の伝道本部の承認を得た。神社参拝は信仰のためではなく、愛国的表現であるとの総督府の言い分を認めたのである。ただし、この方針は、朝鮮人の愛国心を逆撫でするものであった(Copplestone[1973], p. 1196)。

 メソジストよりも強硬派であった長老派に対しては、総督府は、猛烈な弾圧を加えた。一九三八年の韓国長老派教会総会は、日本の官憲の厳しい監視下で開催された。しかし、こともあろうに、そこで、神社参拝が決議されてしまったのである。反対意見を陳述できる雰囲気ではなかった。それは、韓国併合条約調印が武力による威圧下で実施された時の状況と同じであった(Blair & Hunt[1977], pp. 92-95)。

 融和的な姿勢を取っていた韓国メソジスト教会は自主規制策として、一九四〇年末、反日的・親米的傾向を持つ牧師たちを休職させ、一九四四年には旧約聖書と「ヨハネ黙示録」(Revelations of St. John)を禁書とした。それが政治的な破壊活動に資する恐れがあるというのが理由であった(Sauer[1973], pp. 101-109)。

 他方、一九〇八年のプロテスタント教会間の「棲み分け合意」(Comity Agreement of 1908)によって、朝鮮半島の北部に布教拠点を置くことが決められていた長老派は、半島南部の妥協的なメソジストに反発して、新天地、満州に拠点を移していた(Clark, Donald[1986], p. 13)。それは、ナチス・ドイツに反抗する「告白教会」(Confessing Church, Bekennende Kirche)を彷彿とさせるものであった(12)。

 ところが、朝鮮総督府によるクリスチャン弾圧に対して、日本のクリスチャンは激しい抗議の声を上げることができなかった。愛国心がないと政府から嫌疑を受けて、教会が攻撃されることを恐れていたからである(Best[1966]; Copplestone[1973], p. 1197)。一八九一年に起きた内村鑑三の不敬事件についても(13)、日本のクリスチャンたちが激しい抗議を示さなかったのも、当局によるキリスト教会への弾圧を恐れたからであった(Caldarola[1979], p. 169)。