消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.167 マートン・ミラーその1

2007-09-21 05:04:25 | 金融の倫理(福井日記)
 一九九〇年のノーベル経済学賞受賞者三人のうちのあと一人であるマートン・ミラー(Merton Howard Miller, 1923~2000)の「モディリアーニ=ミラー命題」(両者の頭文字を取ってMM命題と呼ばれている)も説明しておこう(Modigliani, F. & M. H. Miller[1958])。

  ノーベル賞の授賞式で記者たちの質問に答えて、ミラーは、「私たちが証明したのは、ピザを五つに切っても、七つに切っても、ピザの総量には変わりがないということです」と言ったという。野口悠紀雄氏は、この発言について、「しゃれていて、しかも問題の本質を突く、いかにもアメリカのビジネススクールの先生らしい答えだ」と褒めておられる(野口悠紀雄「『超』整理日記」二〇〇六―〇五―二〇「銀行の『資本増強』策はみせかけだけ」;http://www.noguchi.co.jp/archive/diary/dr_060520.php)。

 この命題は、資金調達方法の変更などのいかなる財務戦略を取ろうとも、そのことで企業価値が影響を受けることはないということである。ここで、企業価値とは企業の発行する株式の時価総額のことである。企業価値が株価で測られるという習慣はすでに一九五〇年代からあったようである。

 MM命題は、企業の資金調達(Corporate Finance)に関する当時の伝統的理解を批判したものであった。当時の主流は、最適な負債・自己資本比率があるはずで、その比率によって資本コストを最小にすることができるというものであった。この考え方を批判したMM命題は、企業経営者の最大関心事は税負担軽減であり、企業の資産を増やすことである、そして、最適な負債比率などはないと切り捨てたのである。この命題は、完全市場の存在を前提にしている。企業が借り入れを増やして利益を増大させると、金利払いを控除した利益を自己資本(=発行株式)で割った値、つまり、一株当たり利益(EPS=Earnings per Share)が上がり、株価がそれによって上昇しそうに見える。しかし、借入を増やせば、企業にとってそれだけリスクが大きくなることを意味していて、株価を下げる圧力となる。結果的に株式時価総額は上昇しないというのである。

 しかし、どうであろうか。ライブドアが三万株分割によって、日本で最大の株式時価総額を記録したことは、理論ではありえないが、日本の株式市場が不完全で歪みがあったから生じたことにすぎず、日本市場が完全市場になれば、日本の市場の歪みが是正され、そのようなことはありえないと強弁できるものであろうか。

 
現実の市場が不完全であるから生じた。完全市場なら、裁定取引が働くので、理論が教えるように、時価総額が増大するようなことはありえないとの説明がどの程度の意義をもつのだろうか。理論は正しいが、その理論通りにならないのは現実が間違っているからであるというのが、多くの学者が好んで使う説明方法である。しかし、歪んでいる市場が存在しているというのが現実なら、そうした現実に沿う理論を開発することの方が大事ではないのか。完全市場を前提にするのはただ、モデル化しやすいということだけなのではないか。

 株の一〇割とは、一株が一〇株になることであり、株価も一〇分の一になることである。分割によって、安く市場に出回る株が増えて投資家は買いやすくなるため、株主を増やす目的で実施されることが多い。

 そして、大幅な株式分割が、二〇〇一年一〇月の改正商法で可能になった。それまでの「株式分割後に一株当たりの純資産が五万円を下回ってはならない」との規制が撤廃され、分割数の制限がなくなったためである。

 ライブドアは、1、二〇〇一年七月に三分割、2、二〇〇三年八月に一〇分割、3、二〇〇四年二月に一〇〇分割、4、二〇〇四年八月に一〇分割と、四回にわたり自社株を分割した。一株が三年間で三万株に増殖したのである。二〇〇六年四月一三日時点で、発行済株式数は一〇億株を超え(一〇億四九四六万八〇四五株)、時価総額は九八六億円強(九八六億五〇〇〇万円であった(http://quote.yahoo.co.jp/q?s=4753.t&d=t)。新興企業の中ではずば抜けて大きかった。この高い株価を使って株式交換を通じて次々と企業買収を繰り返したことは記憶に新しい。

 株式を一〇分割すれば、その直後は株の価値も理屈上は一〇分の一になるはずである。しかし、実際は分割の発表直後に株価が急騰するケースが多い。分割に伴って発行された株券が印刷されるのに五〇日程度かかり、その間は株を買えても売ることができないため、株価が上昇するからである。ライブドアの株価は、一〇〇分割の発表後、発表前より最高で八・五倍にもなった。司直の裁判に立たされている堀江貴文容疑者は自著で「株主を増やすため株式分割した」と説明したが、関係者によると、株価上昇も狙いだったという。

 二〇〇五年三月、株式分割による急激な株価上昇を避けるため、東京証券取引所は、五分割を超える株式分割を自粛するよう全上場企業に要請した。株券は二〇〇九年六月までにペーパーレス化が始まり、分割直後でも売買は成立するため、「ライブドアと同じ手法で株価をつり上げるのはもう無理」(大手証券会社幹部)だという(http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/96/livedoor007.htm)。

 しかし、「サンケイ・ウェブ」によると、ライブドア・グループによる証券取引法違反事件をきっかけに問題提議された大幅な株式分割について、法務省と金融庁は二〇〇七年一月、この規制強化の考えを見送る方向で検討に入った。東京証券取引所の大幅な株式の分割自粛要請に加えて、さらなる規制の強化を行えば、「株式市場の活力を奪いかねない」と判断したためであるという。

 二〇〇六年までは、分割の実施後実際に子株が売買できるようになるには株券の印刷の関係などから五〇日前後の期間を必要としていたが、二〇〇七年に入ってからは分割翌日から売買が可能となった。つまり「分割による株価つり上げ」という錬金術は事実上封印されたと判断されたのであろう。

 金融庁には、「株式分割自体は投資家を市場に呼び込むもので決して『悪』ではない。あまりにも規制を重くすると市場が沈滞してしまう」という意見があるという。だが一方で自民党内からは相変わらず、規制強化を叫ぶ声が相次いでいる(http://www.gamenews.ne.jp/archives/2006/01/post_478.html)。

 さて、マートン・ミラー戻ろう。ボストン生まれのミラーは、第二次大戦中は、財務省で税制研究に従事していた。一九五二年、ジョーンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)経済学博士、直後、LSE客員准講師を務めた。その後、カーネギー技術研究所(Carnegie Institute of Technology)でノーベル賞受賞論文をモディリアーニと共同で書いた。この研究所は後にカーネギー・メロン大学(Carnegie-Mellon University)となった。この研究所が併設していたビジネス・スクール、産業管理大学院(Graduate School of Industrial Administration)は、調査を主体とした最初のビジネス・スクールでいまなお大きな影響力をもっている。いまでは、名称もテッパー・スクール・オブ・ビジネス(Tepper School of Business)に変わっている。

 修士号は、ハーバード大学で得ている。フリッツ・マハループ(Fritz Machluo, 1902~1983)の指導を受けた。ユーゲン・ファマ(Eugene F. Fama)、マイケル・ジェンセン(Michael Jensen)、リチャード・ロル(Richard Roll)、マイロン・ショールズ(Myron Scholes)など、錚々たる学者を育て上げた。一九七六年、米国ファイナンス学会(the American Finance Association)会長、一九六一年~一九九三年までシカゴ大学ビジネス・スクール(the University of Chicago Graduate School of Business)教授を務めた。一九八三年~八五年までシカゴ貿易会(the Chicago of Trade)理事、一九九〇年~二〇〇〇年六月三日(死亡日)シカゴ商品取引所(the Chicago Mercantole Exchange)理事を歴任した。

 しかし、多くの俊秀を育て上げたとはいえ、資金調達方法によって、企業の株式時価総額に変化はないということがノーベル賞に値するのであろうか。しかも、一九五八年という旧い論文が、三二年も後の一九九〇年のノーベル賞の対象になったことは何を意味するのであろうか。

 一九九〇年代に入って急速に進展した金融、とくに、先物やオプションといた、証券の自由化の流れと彼らの受賞とは無関係であると言い切れるのだろうか。

 マートン・ミラーは、歴史認識において首を傾げざるをえないようなことを平気で口にする。このような歴史認識しかもたない人が世界経済の根底を揺るがすだけの巨大な金融組織のカリスマになっているのである。

 例えば、NHKの取材陣に対して、大坂堂島の米の先物取引所について、次のように語った。米国人なので、日本の歴史に正確な知識をもてという方が無理なのだが、それにしても、彼の歴史認識は、規制と規制からの自由としたステレオタイプ的なものでしかないことが分かる。

 「先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大坂の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした。それは現代の先物市場がもっているすべてを完備した先物市場でした。それはあまりにも成功しすぎてしまったので、政府につぶされてしまって、今日では存在していません。そして、同じようなものは生まれませんでした」(相田・[1999b]、六一ページ)。
 「(堂島米会所は)人類に対するすばらしい貢献だったからです。だから、現代の日本当局が先物やオプション市場を持つことを許可しないと聞いて笑ってしまいました。当局はただ自分たちの支配権が起こされることしか念頭にないのです。実にばかげています」(同、六二ページ)。
 「世界最初の先物市場を政府がつぶされてしまいました。最終的にはさすがの大蔵省も先物やオプションの取引を許可しましたが、それは私たちがうるさく文句をいったから、仕方なく引っ張られたのです」(同)。
 「(日本の先物市場は)残念ながら不毛の土地に落ちた種に似て、まったく発展しなかったのです。規制さえなければ、日本はこの分野の先駆者になれたかもしれません」(同ページ)。

 堂島米会所の歴史を正しく認識しておれば、民間の力の拡大を恐れた明治政府が会所を廃止したという馬鹿げた議論などできたものではないのに、なんと天下のNHKがミラーに追従を言ってしまう。

 同書は言う。
 「市場の自主性に委ねるべきことまで政府の強健で閉じこ込めるのは間違いであり、それは市場の健全な発達を妨げこそすれ、促すことはない」(同、六三ページ)。

 せめてNHKには正しい日本史認識をもってもらいたい。デリバティブやオプションを認めることが市場の自主性なのだろうか。巨大ファンドの跳梁跋扈が市場の発展なのだろうか。『マネー革命①』で厳しく米国の金融新商品を批判した人とこの『マネー革命②』の著者は同じ人なのだろうか。

 市場はなんらのルールを持たずに勝って気ままに動くものではない。どうしても法の裏付けがなければならないものである。ところが、経済学部出身者ではなく法学部出身者が大蔵省を牛耳っていることこの著者が疑問を出す。市場の心理に通じない者がなにゆえにわがもの顔で市場を支配しているのかと著者は息巻いている(同、六三ページ)。

 逆に聞きたい。経済学部出身者が大蔵省や金融界を支配するようになれば市場の心理が分かるようになると本気で著者は考えているのか。わずか二年間の専門教育で何が分かるというのか。これは、NHK出版の著者の意見ではなく、金融専門家たちの意見であるという逃げを打っている。しかし、経済学の専門家といっても一色ではない。経済学は科学であるよりもまず人間学であり、社会科学であり、歴史哲学である。解答は一つではないことぐらいNHKたるものは知っておくべきことである。

 なによりも、米国政府によって、押し付けられたことが正しいことなのか。ミラー自身が述べているように、証券先物やオプションは米国によって押し付けられた。市場を知る米国が市場を知らない日本政府を正しく導いたとでもNHKは言いたいのであろうが、オプション導入を拒否することが市場を知らない行為であると言い切れるのだろうか。米国発の金融市場化が、生産システムを破壊する恐れがあると認識していたからかつての大蔵省の守旧派は、正しい金融市場を守ろうとしてきたのではなかったか。事実、米国政府のいいなりになった後、日本の生産的企業の資金繰りは、とたんに苦しくなった。NHKよ、なにを言ってくれるのだと私などは怒りを覚える。

 少なくとも歴史には因果関係があり、正しい者と悪い者とがせめぎあうといった単純な世界ではない。市場依存者が正しく、市場を規制するものが邪悪な権力であるなどと断定するのは歴史を正しく勉強したことのない者の発言である。そう言えば、米国の経済学部には歴史学はない。歴史は理論が掴んだ正しい方向に進むはずなので、正しい理論に従えば歴史は理論が説いた方向に進むなどと考えてしまう単細胞に私たちは与すべきではない。

 米国流の証券化の結果、サブプライム問題が起きた。それは現代資本主義の根底を破壊しかねないものである。サブプライムを規制しなければ現在の苦境から脱出する方法はない。金融市場は、好調なときには権力を批判するが、苦境に立てば直ちに権力にすがる。しかし、自由化を進めるにせよ、救済を求めることにせよ、瞬時に権力の庇護を受ける体制作りに権力との日常の連携作りに、金融界は余念がないのである。

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