消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.171 ミルトン・フリードマン語録

2007-09-27 23:05:09 | 金融の倫理(福井日記)


  以下は、PBS(the Public Broadcasting Service)というテレビのウェブサイトに掲載されたフリードマンへのインタビューの内容である。二〇〇〇年一〇月一日に収録された。字数を節約したいので、「です」「ます」調でなく、「である」調で翻訳している。私のコメントは書かずに、フリードマンの人となりを表す部分だけを訳した(Commanding Heights : Milton Friedman; http://www.pbs.org/wgbh/commandingheighs/shared/minitextlo/int_miltonfriedman.html)。

1、 自由と自由市場について

 「個々人が、自己の資源を自由に使うことから自由は生まれる。現代社会は非常に多くの人々が結集する企業を必要とする。問題は、抑圧を伴わずに協同作業をどう組織化するかということにある。・・・現在までに発見されている方法は・・・自由市場によるものである」。

2、私有財産と自由について

 「個々人に応じた知識を獲得する自由は、自身の財産を自己管理することから生まれる。自己管理できず、他人に財産を管理されてしまえば、成すべきことを他人に決められてしまい、自身の力が及ばなくなってしまう。・・・自己の知識を正しく使用するには、私有財産によるべきである」。

3、闇市場の意義について

 「闇市場とは政府の支配から逃れるものであった。これが自由市場を可能にしてきたのである。・・・当事者たちが相互に利益がなければ交換は発生しないということが最重要のことである。政府はAを利し、Bから奪うべく抑圧によって交換させる、この点が政府の抑圧と民間市場との大きな違いである。・・・悪い法律の支配を打破するのは闇市場だけである。・・・立法よりももっと気高い法(注、究極の道徳原理)がある」。

4、 モン・ペルラン協会について

 「モン・ペルラン会合の論点は非常に明瞭なものであった。自由が深刻な危機に瀕しているということであった。それがハイエクの認識であったし、参加者もその認識をもっていた。戦時中、どの国においても、政府が経済を組織し、すべての生産を武装と軍事目的に振り向けた。戦争が終結しても、中央計画が機能する事が戦争で分かったとの考え方が人々の間に広がっていた。・・・左翼はとくにそうであるが、英米仏などの国の知識人たちが、中央計画の実験を成功させたものとして、ロシアを研究するようになっていた。世界中でこうした動きが強くなっていた。英国では社会主義者の(クレメント・アトレーClement Attlee)が選挙を制した。フランスでもその動きがあった。・・・われわれは、そうした動きを逆転させる知的潮流を大きくしなければならないと思った。これが『隷属への道』のテーマであった」。

 「ハイエクが会を組織し、ハイエクが会への出席者を選定し、ハイエクが会を運営する資金を調達してきた。資金の大部分はスイスからきた。だから会はスイスで開催したのである」。

 「ライオネル・ロビンズ(Lionel Robbins)やジョージ・スティグラー、フランク・ナイト、そして私など、まず社会主義者や平等主義者とは見なされていない面々が所得分配について議論をしていたとき、彼(ルードウィッヒ・フォン・ミーゼス=Ludwig von Mises)が立ち上がって、『君たちは皆、社会主義者だ』と叫び、部屋から出て行った。ミーゼスは非常に強い信念をもっていて、異なる意見には我慢できない人であった」。
 「言っておかなければならないことは、何年も何年も彼(ハイエク)がモン・ペルラン協会の会議でもっとも活躍した人であり続けたということである」。


5、ジョン・メイナード・ケインズについて

 「実際には、一九二四年の『貨幣論』が彼の著作の最善のものの一つだと私は信じている。思うに、長期的な視点からすれば、それよりはるかに後に出された『一般理論』よりも基本的に優れている。・・・『一般理論』を皆が話題にした。それは一般的な雰囲気であった」。

 「私に与えていた彼の影響は、私が財政政策を重視して貨幣政策を軽視してしまったことであり、とくに通貨数量には注意を払わず、金利にのみ注目していたということである」。

 「私が、彼が編者となっている『エコニミック・ジャーナル』(the Economic Journal)に投稿したとき、彼の否定的な態度で掲載を拒否された。それが彼との唯一の個人的接触であった」。

 「それは、当時、ロンドンとケンブリッジで教授をしていたA・C・ピグー(Pigou)が、昔、書いていたものを幾分批判したものであった。ケインズの返信には、ケインズが私の論文をピグーに見せたところ、ピグーは私の批判に納得しなかった、そこでケインズは掲載を拒否したとあった。論文はその後、『クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス』(the Quarterly Journal of Economics) に掲載された。ピグーの論文もその号には掲載された」。

6、 大恐慌について

 「(連邦準備理事会=FEDは)通貨量を三分の一減少させる政策を取ってしまった。・・・恐慌の開始から終わりまでに三分の一が倒産するという銀行制度の異常な崩壊によって、何百万人もの人が貯蓄をほとんど失ってしまった。それは不必要なことであった。当時の連邦準備理事会は、事態を阻止する力と知識をもっていた。そうすべきだと要請する一群の人々もいた。思うに、大恐慌に導いたのは、誤った政策であったことは明白である」。

7、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)について

 「ニクソンは、二〇世紀におけるもっとも社会主義者的な米国大統領であった」。
 「彼の政権下でEPA(the Environmental Protection Agency=環境保護局)、OSHA(the Occupational Safety and Health Administration=職業安全厚生部)、OECA(the Office of Enforcement and Compliance Assurance of the EPA=環境保護局促進・苦情受付事務所)等々、いくつもの政府機関が作られ、戦後で最大の政府規制と産業統制が敷かれた」。

 フリードマンは、ニクソンの執務室でジョージ・シュルツとともにニクソン大統領と度々会い、貨幣政策について論じ合っていたと話した後、

 「実際、ニクソンは私が会った政府関係者の中では最高のIQの持ち主の一人であった。ニクソンの知性と偏見に問題があったわけではない。彼が、政治的な目的のために原則をあまりにも簡単に犠牲にするということが問題だったのである。いずれにせよ、私は彼の下から去りたかった。そのとき、彼は私に言った。賃金と価格を統制するという馬鹿げた政策を採用したことでジョージを攻めないで欲しい。ジョージとはジョージ・シュルツのことである。私はニクソンに言ってやるべきだと思った。・・・『いいえ、大統領(Mr. President)、私はあなたを責めているのです。(笑)思うにこれが私が彼に言った最後の言葉であった。この間の重要な経緯を語るテープがニクソンの手にある。私はそれを手に入れようと努力してきたがいまだにはたせないでいる。しかし、上記のことがあったことを明白にすることは私にはできない」。

8、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)について

 ポール・ボルカー(Paul Volcker)が米国の貨幣政策に関与するようになるのは、一九六九年以降である。一九六九~七四年の財務次官(Undersecretary in the Treasury Department)、一九七五~七九年のニューヨーク連銀総裁(President of the New York Federal Reserve Bank)、一九七九~八七年の連邦準備制度理事会議長(Chairman of the Board of Governors of the Federal Reserve Board)を歴任した。ボルカーが、金利操作ではなく、通貨量を調整する政策を採用するようになるのは、一九七七~八一年のジミー・カーター(“Jimmy”James Earl Carter)民主党政権から、一九八一年のロナルド・レーガン共和党政権に政権が移行してからである。

 米国は、高率のインフレーションに苦しみ、世界各国から野放図な経済運営を批判されていた。カーター政権は、インフレーション対策として、急激に割賦販売などの利子を引き上げ、経済が急激に収縮するや、経済を浮揚させるために通貨量を増やし、再度、インフレーションを昂進させるという悪循環に陥っていた。カーター政権下の一九八〇年度前半の五か月間の通貨量の増大は、第二次世界大戦以降のどの五か月間の通貨量増大よりも大きかった。レーガンがボルカーの通貨量抑制路線を支持したのである。

 「レーガンが選挙戦を制してカーター政権を引き継ぐや否や、通貨量は減少し始めた」。

 「FEDの政策に影響を与えようとはせず、介入もしようとはしなかった大統領は、戦後では彼以外にはいなかった。・・・インフレーションを克服する正しい政策は通貨量を減少させること以外にはなかったのである。しかし、それには一時的な景気停滞を引き起こしてしまう。過去の最大の誤りは、わずかの景気後退に直面すれば失業を回避すべく通貨量を急激に増やす政策を採用してきたことである。この点において、歴代大統領は連銀に通貨量拡大を命じる行動をとってきたのである。レーガンは、ことの次第を理解していた。インフレーションを克服する唯一の道を採用するには、一時的な景気後退を甘受すべきであると理解していた彼は、ボルカーを支持し、介入しなかった。・・・レーガンは、基礎的な経済目標を達成するために自分が採用した政策の政治的なリスクを熟知していた。そして、ご存知のように、一九八二年の世論調査で彼の支持率は下がった。しかし、インフレーションを十分退治し終えたと判断したFEDが通貨量拡大路線に転じるや、経済は回復し、それとともに、レーガンの支持率も回復したのである」。

 「すでに説明したが、ニクソン政権時代、規制の数は・・・二倍になった。レーガン政権時代になってほぼ半分に規制の数を減少させたのである」。

 「(サッチャー(Mrs. Thatcher)とレーガンの)二人はお互いに刺激し合った。彼らは互いに相手の成功を見ていた。サッチャーとレーガンが同時代に政権についたことによって、経済政策と貨幣政策面でいままでと違った別の理論が世界中の人々に受容されることになったと私は思う」。

9、チリ(Chile)のピノチェット(Pinochet)との関係について

 「チリにおいてアジェンデ(Allende)が放り出されて(thrown out)、ピノチェット率いる新政権ができたときのチリの情況に私が関連していたことがのみが、私が罵倒されることなのである。当時、たまたまのことであるが、アジェンデ政権に毒されていなかった(not tanited)経済学者グループはシカゴ大学で学んだ人たちだけであった。彼らがシカゴ・ボーイズ(the Chicago Boys)と呼ばれるようになった。この初期の時期にシカゴ出身の数人を含むグループとともに私はチリに赴き、チリの直面する問題について一連の講演を行った。とくにインフレーションを問題にし、それにどう対応すべきであるかを話した。共産主義者(comunist)たちはピノチェット打倒を決意していた。アジェンデ体制が革命によることなく通常の政治のチャネルを通じて共産主義国家を樹立させようとしていたと見なしていたからである。ここでも、ピノチェットはその試みを打ち破った。彼らはピノチェットを貶めようとした。そして、その結果、ピノチェットに関係するすべての人々を貶めようとした。その関係で、私もストックホルムにおけるノーベル賞記念式典(注、一九七六年、フリードマン受賞の年)の日に、私に反対する大規模なデモによる罵倒を受けた。私は覚えている。群衆の中にはシカゴで議論し、サンチャゴ(Santiago)で論じ合った人の顔が見えた。それは、私へのリンチ("tar and feather me"=タールを塗り、羽毛を貼り付ける私刑のこと)を狙った連携した組織行動であったことは明らかである」。

 「シカゴ大学の理論が実践に移されたという意味においてチリの事件が転換点をなすわけではない。それは政治的な面において重要なことなのであって、経済的な意味においててはない。共産主義に向かう動きが自由市場に向かう動きによって覆されたという最初のケースなのである。しかし、チリにはきわめて異常なことが起こっている。一つの軍事政権が対立する別の軍事政権に取って代わられたことである。軍隊は通常の経済とは違う。それは、トップ・ダウン組織だからである。将軍が将校に命令し、将校が部隊長に命令し、さらに部隊長が・・と続く。それに対して市場はボトムアップである。・・・ただし、チリで瞠目すべきことは、軍事政権が軍隊組織ではなく、市場組織を採用していることである。・・・私は、チリで話したときには私への批判を数多く受けた。しかし、チリで行ったものと同じ話を中国でしたときには、誰も意義を差し挟まなかった。どうしてなのだろう?」。 


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