消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.163 キャッチコピー

2007-09-14 01:54:24 | 金融の倫理(福井日記)


 投機に人生を賭ける若者に共通する型がある。

 まず、人間の投機行動をパターン化してコンピュータにインプットする。その型の分類は、大学で学んだ「計量心理学」等々の、新しい理論に基づく。

 つまり、人生経験から人間の心理を学ぶのではなく、大学で流行する新理論とコンピュータへの信頼によって、人間心理を理解する。

  もちろん、この場合の人間心理とは、相場に反応する投機家心理に限定されるものであるが、人間を怖ろしく単純化して理解してしまっている。

 NHKの『マネー革命1』で著名なファンドマネジャー、ロイ・ニーダーホッファー(Roy Niederhoffer)の自信溢れる言葉が紹介されている。ハーバード大学で専攻した「計量神経科学」を投資に応用しているというのである。

 「このビジネスを始めたのは一九九三年(本山が付加、二八歳)のことでした。市場の『恐怖』や『変わりやすさ』や『感情的な反応』などをコンピューターで分析すれば、独創的な取引手法が編み出せると考え、それを使えばお金が稼げると考えました」。

 「(計量神経科学は)人間の行動の一つ一つを説明するのにとても有効な学問でした。例えば、人は恐れを感じると、どうしたらよいのかわからなくなります。周囲を見回して『周りのみんなと同じことをしよう』とうろたえます。その翌日になって、ふたたび周囲を見回し、『私はそれほどうろたえる必要はなかった。少し待ってみよう。それにしても昨日は誰もがあんなに怯えていたのに、今は安心しているとはどうしたことだ』と言いながら、今度は買う気になってしまうのです。こうしてパニックと安心感が交互に遅い、二、三日間は相場が下がったり上がったりするのです」。

 「こうしたサイクルをコンピューターのプログラムに組み込むことで、相場の動きを的確に予測し、儲かる取引ををしようというわけです」(相田・宮本[1999a]、二三六ページ)。

 実際に、彼らが、人間心理をコンピュータで解析しているのか否かについては分からない。いたずらな揚げ足取りは生産的ではないことを承知しつつも、これではケイ線分析とどこが違うのかと嫌みの一つも言いたくなる。少なくとも、「最新の」「科学」なるキャッチフレーズが、出資者を募る武器になっているとしか私には思われない。薄暗いところで若い女性を「コンピュータ占い」をするとして勧誘する行為とほとんど同じことではないのか。

 実際に使われている手法は、情報を誰よりも先に入手することである。
 「人間は客観的な予測や、長期的な予測を正確にするのは不得意なんです」(同、二四〇ページ)。
としてコンピュータ解析の威力を説明した後、ロイはまったく反対のことを言う。

 「相場はどんどん変わっていきますから、私たちの取引には長期の予測よりも、三〇分後、数時間後、数日後といった、短期の予測が必要なんです。そこで、市況の予測も三〇分から数時間、せいぜいで数日間の範囲で行っています」。

 「『次の数時間のうちに市場で起きる可能性があるのは何か』を知るための道具が私たちのシステムなんですが、それに使える過去の統計がないときには答えが出せません」(同、二四六ページ)。


 本当に揚げ足取りで恥ずかしいが、「『計量神経科学』をお使いではなかったのですか?」と言いたくなる。

 他人が使うデータは使用しない。自分たちが独占できる情報でなければならない。全員が見ることのできるモニターが出たときには、市場はその先を行ってしまっているとして、次のようにロイの仲間のマイケル・ラストは言う。

 「僕たちはニュースに頼って取引するより、自分たちのシステムで取引するほうがうまくいくと信じています。・・・誰も知らないよい情報でよい予測をすることが秘訣なんですね」(同、二四八ページ)。

 情報の独占などできるものだろうか。彼らのコンピュータ解析は情報の独占を彼らにもたらしているのだろうか。

 しかし、彼らはとてつもなく重要なことをさらりと言ってのけた。金融市場はゼロサム・ゲームだと断定し、多数派にはつかないとした。誰も使っていない情報を自分たちだけが使うなんて恐ろしくないかとのNHK取材陣に対して次のように答えた。

 (ロイ)「いや、怖くはありませんよ。あえて人と違うことをしたいと思っています。それが私たちの戦略です。金融市場はゼロサム・ゲーム。敗者の金はそっくり勝者が取るのが鉄則です。しかも、損をするのは常に多数派です。特に先物市場では勝つか、負けるかしかないんです。ブローカーや法律家など、手数料を取る人たちの儲けが、どこから来ているか知っていますか。その金は多数派が損した金なんですよ。それから、取引所やローカル・トレーダーが稼ぐ金もまた、多数派が損した金なんです。多数派がやっていることこそが危険だと考えるべきなんです。だから、あえて多数派とは反対のことをする。それが私たちの主義なんです」(同、二四九ページ)。

 しかし、独自の情報の独占というからには、自分たちのコンピュータ解析に対する強い信頼からくる発言だと思ってしまうが、実際には、「なーんだ」ということであった。シカゴの商品先物取引所などにブローカーを常駐させて、電話で知らせるというのである。モニターに映し出されるよりも、あるいは、ウエブサイトで情報が流されるよりも、四秒は早く「モルガン・スタンレーが米国債を二〇〇〇万ドル買った」という情報を得ることができる。指数先物は米国債に連動するので、この四秒の間に先物を買えばよいというのである(同、二五〇ページ)。画面を見て取引する人よりも取引所の生の声を〇・五秒でも早く知ることが大事だというのである。生の声とは、取引所に常駐させているブローカーの電話から流れる取引の熱気のことである。

 「このように取引所の生の声を直接聞いていると、画面を見て取引する人たちよりも〇・五秒ほど早く価格を知ることができるんです」(同、二五〇ページ)。

 これが豪語された「情報の独占」のことなのだろうか。
 (ロイ)「これは私たちが独自に発見したことなんですが、『市場にパニックが起きると人間の行動が最も予測しやすくなる』ということです。そこで、私たちはコンピューターを使って『恐怖の度合いを数値化』して、その『量的な変化』を見ながら、市場に何が起こるかを予測するんです」(同、二五五~五六ページ)。

 では、今日は、大勝利だったのですねとの取材陣の質問に対して、

 「いえ、残念ながら、今日はあまりうまくいきませんでした。私たちのシステムがあまり正確な判断を下せなかったんです。今日は負けを認めなければなりません」(同、二五六ページ)。

 彼らは、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の朝刊で、「FED、数か月早く利上げを検討する」という観測記事の反応に失敗したのである。他人が使う情報は無視すると豪語しながら、この情報に飛びついただけでなく、ありふれた観測記事への対応に失敗したことは、彼らが豪語するシステムが単なるキャッチ・コピーであったことを示している。

 今回は、品性において劣る文を書いてしまった。深謝。

 引用文献

相田洋・宮本祥子[1999a]、『マネー革命1―巨大ヘッジファンドの攻防』NHK出版。


福井日記 No.162 市場波乱が儲け口

2007-09-13 00:00:47 | 金融の倫理(福井日記)


 NHKの『マネー革命1』で、ヘッジファンドが儲けるときは、市場が激しく動いているときであって、市場が落ち着けば儲からなくなるという言葉がヘッジファンド運用者から引き出されている。

 一九九三年に設立された、日本市場を専門とする「アベンティン・インベストメント・マネジメント」という米国の小さなファンドの運用者が、次のようにNHKの取材陣に語った。

 「突然、何かの災難が起きて、市場がひっくり返ったとしましょう。その波乱こそ、利ザヤを生むのです。僕たちが一番恐れているのは、市場の動きが止まって、利ザヤを取ることができなくなってしまうことなのです」(相田・宮本[1999a]、二二二~二三ページ)。

 これは怖ろしい言葉である。「市場がひっくり返った」ときが「利ザヤを生む」という認識があるのなら、市場に波乱を起こそうという衝動が生まれるのは自然の流れである。

 投機によって市場を安定化させる効果がヘッジファンドにあるということと、利ザヤを得るために市場に波乱をヘッジファンドが起こすということとは、紙一重の差しかない。

 取材陣は、ファンド運用者たちから重要な証言を数多く引き出している。一九九八年のことである。

 (エリック・スター(Eric Star)という運用者)「日本市場は情報が少ないために、きちんと評価されていない割安の株がたくさんあるのです。誰もそれで儲ける方法を知らないんです。今、世界で最も儲けるチャンスがある市場は日本です」(同書、二一九ページ)。

 ヘッジファンドには運用方法や資産内容などを当局に報告する義務がない。したがって、そこから上がる利益には税金がかかりにくい。そのため投資家も余剰資産をヘッジファンドに預ける。アベンティン・インベストメント・マネジメント(Aventine Investment Management)の場合は、顧客から預かる資金は一口一〇万ドルが最低単位。顧客の多くは企業年金などの機関投資家。運用の自由度を上げるには、大口の顧客を多く持ち、潤沢な資金を確保することが必要(同、二二三ページ)。

 社長のジェームズ・バーンズ(James Burns)は名門プリンストン大学の卒業生。マンハッタンにある会員制のプリンストン・クラブ玄関前で顧客に会う。顧客の信用を勝ちうるには、こうした演出も必要と取材班は納得(同、二二四ページ)。

 夜間に開催されているニューヨーク大学のビジネススクールは「ウォール街のエリート養成所」である。

 
ここでは、オプション理論の権威者、マイロン・ショールズと親友の金融工学専門家のインド人、マーティー・スブラマニアム(Marti Subramaniam)教授が教えている。彼は、アベンティン・インベストメント・マネジメントの顧問でもある。

 (同教授)「(ジェームズのような教え子である)彼らが理論を実際の取引に使ってくれることによって、私もまた、理論を洗練することができる」(同、二二六ページ)。

 一九九八年四月三日(日本時間)、日本市場は狂乱状態になった。後に、「ムーディーズ・ショック」と呼ばれるようになったものである。同日、午前一〇時三五分(東京時間)、米国格付け会社のムーディーズ(Moody's Investors Service,inc. 一九〇〇年に創立)が、日本国債の長期見通しの格付けを、それまでの「ステーブル(安定的)」から「ネガティブ(弱含み)」に変更するかも知れないと発表した。国債はリスクフリー(リスクにはさらされない)と思われていた日本国債の格下げの可能性で、日本市場は大混乱に陥った。

 格下げされるかも知れないという怯えが市場に走った。実際に格下げしたわけではないのに、日本国債は売られた、価格が急落した。ちなみに実際に格下げされたのは、同年一一月一七日であった。

 (エリック)「ムーディーズは実際に日本国際の格付けを下げたわけではありません。次の格付け時には下げるかもしれないといったにすごません。しかし、企業にとっては重大です。もし国債の評価が格下げされれば、日本の信用が落ちるわけですから、お金を借り入れるときの金利が高くなります。・・・それは企業の将来の業績不安につながると市場は考えますから、株価は下がりますね」、「そうでなくても、日本の市場には否定的で弱気な感情が蔓延していましたので、ムーディーズの発表が火に油を注いだわけです。日本国際の暴落だけでなく債券価格や株価の大暴落を招きました」(同、二三〇ページ)。 そして、
(ジェームズ)「二五万ドル儲けました。たった五分間でね」(同、二二九ページ)。

 転換社債を買い、株式を空売りしたからである。転換社債というのは、株式に転換できる社債のことである。社債なら、買ってもらった会社は、その額を負債として返済しなければならない。しかし、社債を買ってくれた人が、それを自社株に転換してくれれば、負債はなくなる。株式は負債ではないからである。

 国債が下がれば、株価も下がる。株価に連動して転換社債価格も下落する。しかし、連動するといっても、下落率は、転換社債と株式とでは異なる。転換社債の下落率が株式よりも緩やかであれば、転換社債を買っておき、株式を空売りすれば、下落局面では、借り株を売り、底値で買い戻せば、儲かる。転換社債も下がるが、下落率が緩やかなので、株式の空売りによる儲けの方が大きくなる。株価が上がれば、転換社債は理論値よりも十分低ければ、株式よりも価格の上昇率が高くなる。空売りした株式で損を出すが、転換社債の買いによる儲けの方が大きいので儲かる。こういう理屈で彼らは儲けたのである(同、二三一~三二ページ)。こういう手法が「マーケット・ニュートラル」という。理論値の算定が彼らの技術であり、そのリターンをαという。

 (ジェームズ)「最先端の金融工学の理論を使えば、複雑な条件に基づいた取引を簡単に分析することができますから、転換社債などのオプションの理論値やリスクを評価し、複雑な条件つき取引の真価を割り出すことができるのです」(同、二三四ページ)。

 そのさい、使うデータが生命線となる。当然、そうしたデータは機密事項である。
 彼らは数秒単位の取引をする。〇・五秒での取引で損得が決定されてしまう。秒速の取引が普通になっている時代、NHK取材陣は告白する。

 「私たちは、労働によって得た汗の結晶をそんな彼らの手に委ねるとしたら。思うだに、ぞっとする連想であった」(同、二五一ページ)。

 人間の生活はけっして単純なものではない。喜怒哀楽がないまぜになった複雑なものである。そうした生活を理解して人の脳裏に移し替える作業を行うのが経済学であるはずである。経済学を正しく習得するには気の遠くなるような膨大なエネルギーと時間を必要とするものであると私などはいまでも思う。しかし、最先端の金融を扱う専門家たちは、世間的な常識からすれば例外なく若造たちである。

 理系の大学を出て、ビジネススクールでトレーダーの手法を学び、大学卒業後、金融機関で三年間ほど実務につき、独立してファンドを創設する。つまり、二七~二八歳で独立する。そして大儲けする。未完成な人間が、物作りで生涯をかけた人の生涯収入の何百倍もの儲けを一瞬にして稼ぎ出す。彼らの収益の前で、多くの人間が生活の糧を奪われている。そして、世間の羨望を集めるのは、労働者ではなく、トレーダーたちなのである。そう言えば「金儲けは悪いことなのですか?」と問うた、つぶらな瞳のファンド・マネジャーがいた。
 
 引用文献

相田洋・宮本祥子[1999a]、『マネー革命1―巨大ヘッジファンドの攻防』NHK出版。


福井日記 No.161 オルタナティブ投資

2007-09-12 01:34:20 | 金融の倫理(福井日記)


 ヘッジファンドなどの投資は、オルタナティブ投資と呼ばれている。オルタナティブとは、「・・・の代わりになる」という意味である。

   つまり、オルタナティブ投資とは、株式や債券などの昔からの投資とは異なる種類の投資ということである。昔からの投資とは、マーケットの動向に左右されることを基本線とした投資である。安く買い、高く売るというものである。

 これに対して、オルタナティブ投資とは、相場の動向に関係なく収益(α=アルファ)の確保を目指すものである。空売り、先物、オプションなどを組み合わせた投資である。こうした組み合わせがデリバティブと呼ばれるものである。ヘッジファンドもその一つである。オルタナティブ投資とは、ヘッジファンドの他に、コモディティ、プライベート・エクイティ、不動産投資、外国為替、フューチャーズ、ワラント、などがある。

 ヘッジファンドは、一九四九年にアルフレッド・ジョーンズ(Alfred Winslow Jones, 1901~1989)が創設したのが最初であることについては、すでに説明した。「経済予測の型」(Jones, A. W.[1949])の論文で展開した自説を実現させたのである。統計的手法で未来を予測するだけでは不十分である。リスクをヘッジすることを加味することが重要であると説いたのである。

 この論文が印刷される二か月前に彼はファンドを創設した。自らは四万ドルを投じ、六万ドルを募集、計一〇万ドルで出発したファンドは、一年目で一七・三%もの高収益をあげたのである(Rappeport, A. [2007])。

  ジョーンズのファンドを成功に導いた理論を解説した彼の論文に刺激されて、米国でヘッジファンド創出ブームが生じたのである。

 ある株の現物を買うと同時に、異なる値動きが想定される別の株を空売りをすれば、たとえ現物株が下落しても、結果として安定した利益を確保できるという理屈に則った投資をする集団が、ヘッジファンドと呼ばれるようになったのである。空売りというのは、現物株をもっていないのに、借りてきた株を売ることである。借りた株は将来の時期に現物で返さなければならない。現物買いに空売りを巧みに組み合わせれば取引のリスクを回避(ヘッジ)できるというのである。一九五〇年代にはそうしたヘッジファンドが一四〇も数えられたが、現在でそのときのファンドで生き残ったものはほとんどない(相田・宮本[1999a]、一六七ページ)。

 初期のヘッジファンドが衰退したのは、一九六〇年代の株価高騰ブームのせいである。優良株を買いさえすれば必ず値上がりするので、ヘッジの必要性がなくなったからである。今度は、ヘッジをするのではなく、投機的な金儲けを主眼とするファンドが排出した。現在は解散したが、一九六七年に設立されたスタインハート・パートナーズ、現在でも活躍している一九六九年のクォンタム・ファンドがそれである。

 一九七〇年代、株価は低迷しだした。そうした環境下でふたたびリスク回避の手法が開発された。これはポートフォリオ理論という分散投資を基本とするものである。値動きの異なる株式を組み合わせることで、利益と損失をコントロールできるという理論である。

 その後、オプション価格算定式が開発された。将来の一定日時に売買する権利のことをオプションといい、そうした権利を将来ではなく現在で取引することをオプション取引という。権利の売買手数料をオプション料金という。現物株や先物株を実際に売買するのではなく、権利だけの売買であるので、はるかに少ない費用ですむ。売る権利を買ったが、将来対象株が値下がりすれば、売る権利を放棄すればよい。オプション料金の損失だけですむのである。うまく値上がりすれば、利益を得ることができる。

 こうした便利な取引のポイントは、権利料金、つまり、オプション料金をどのように算定するかということにある。この算定を行うのがオプション価格算定式なのである。このオプション取引の活発化がデリバティブ取引の隆盛を生み、数学の専門家たちが、金融界に参入し、金融工学の旗手たちが輩出することになった。そして、この金融工学を鳴り物入りで取り入れたのがリスクを回避する意味でのヘッジでなく、投機に主力を移したヘッジファンドだったのである。

 ヘッジファンドの数は、世界全体で四〇〇〇は超えているであろう。ほとんどは、税金のかからないタックス・ヘイブンに登記されている(相田・宮本[1999a]、一六八~六九ページ)。

 最初の頃は、完全に私的な個人の資金を募集し、最低でも一〇〇万ドルの出資が条件であった。金持ちだけの個人の出資ということから、SECに運用内容を報告する義務はヘッジファンドにはなかった。

 一九九六年一〇月以降は、米国では、「国家証券市場改革法」(the National Securities Markets Improvement Act of 1996)によって、大口投資家の年金基金や銀行などもファンドに出資ができるようになった。

 しかし、二〇〇四年、SECはすべてのヘッジファンドに対して、当局への届け出を義務化し、規制を強化するようになった。このことによって、米国ではヘッジファンドのリターンは低下し続けている。いまでは八%前後にまで低下している。そのために、レバリッジを高めたり、天候デリバティブや災害債券(実際に災害が起これば元本がゼロになる)を購入したりして、二〇〇四年以降、ヘッジファンドはかなり怪しげなところにも投資するよおうになってしまっている。

 にもかかわらず、ヘッジファンドを含むオルタナティブ投資は激増している。一九九三年に設立された業界最大手のヘッジファンド・リサーチ(Hedge Fund Research)社によれば、オルタナティブ投資ファンドが世界で運用する資産は、一九九〇年には三九〇億ドルであったが、二〇〇四年第三・四半期には八九〇〇億ドルと驚異的な増加を示した。世界の六六〇〇本のヘッジファンドをカバーするトップクラスのデータベースであるTASSの試算では、二〇〇八年には二兆四〇〇〇億ドルにまで増加するであろうとされている(服部邦洋[2005]、一七~一八ページ)。

 ここで、用語解説をしておきたい。
 「トービンの分離定理」と言われるものがある。「すべての卵を一つの籠に盛るな」という格言をジェームズ・トービン(James Tobin, 1918~2002)が使ったとされている。これが、「ポートフォリオ理論」の基礎になった。

 株式投資で、よく使われる用語にα(アルファ)とβ(ベータ)というものがある。運用者の技術で得ることができる超過収益がαを呼ばれ、市場変動による収益をベータという。βを排除してαを狙いにいくことを「株式マーケット・ニュートラル」といい、「株式ロング・ショート・ポジション投資は」、は、βを狙いにいく投資である。

 「プライベート・エクイティ投資」というのもある。株式の未公開企業に投資することを指す。「ディストレスト証券」といって、財務面で困難に陥った企業の割安になった株式を積極的に買う手法もある。ウォーレン・パッフェトがその代表である。

 エール大学は、ヘッジファンドにいち早く投資した大学であり、一九八四年以降、二〇年間に渉って年利一六・一%のリターンをあげている。ハーバード大学も過去一〇年間に平均一五・九%のリターンをあげている。

 「グローバル・マクロ」という用語もある。為替・金利・株式・商品などあらゆる市場で、市場の歪み・矛盾したトレンドを発掘し、市場の方向に関係なく収益を追求することを指す。   

  引用文献

Jones, Alfred Winslow[1949],"Fashions in Forecasting," Fortune, March.
Rappeport, Alan[2007],"A Short History of Hedge Funds," CFO Magazine, March 27.
相田洋・宮本祥子[1999a]、『マネー革命1―巨大ヘッジファンドの攻防』NHK出版。
服部邦洋[2005]、「オルタナティブ精神」『会計情報』(トーマツ・リサーチ・センター)
     第三五一号、一一月。


福井日記 No.160 イテラ

2007-09-10 00:28:02 | 金融の倫理(福井日記)


 一九九一年のソ連崩壊は、それまでの共通通貨であるルーブルの通用性がなくなることでもあった。旧ソ連圏の各国が、独自の通貨をもつようになり、それまでのルーブルによる通商関係が一時的にせよ破壊されてしまった。

 
貿易は、物々交換という原始的なものに後退してしまったのである。二・五億人が物流の沈滞によって、食料や医薬品といった生活の必需品の調達に人々は困難を覚え、飢餓状態に陥れられた。こうした危機を打開すべく創設されたのがイテラ(Itera)である。

 イテラは、キプロス(Cyprus)で登記された会社で、本部はモスクワ(Moscow)にあり、支店が、キプロスのリマソール(Limassol)と米国フロリダ州(Florida)ジャクソンビル(Jacksonville)にある。

 たとえば、イテラは、一九九四年、トルクメニスタン(Turkmenistan)に大量の砂糖を送り込んだ。この代金をトルクメニスタン政府は払わずに、イテラに自国内の天然ガス採掘権を与えた。イテラは、この種の取引を旧ソ連圏の各国政府と行い、結果的に、天然ガスのパイプラインをウクライナまで伸ばし、ウクライナに天然ガスの売りつけに成功したのである。

 同様の取引はその後も継続され、アルメニア(Armenia)、グルジア(Georgia)、アゼルバイジャン(Azerbaijan)、ベラルーシュ(白ロシア=Belorussia)、さらにはバルト諸国(the Baltic States)で、成果を収めた。一九九六年には、北部ロシアのガス油田を買収し、世界有数の天然ガス生産・販売会社の一つにのし上がった(wikipedia)。

 ただし、イテラは、ガスプロムと不正な取引をしていたと言われている。イテラは、ガスプロムからロシアの天然ガス油田を不当な低価格で入手し、ガスプロムの経営陣に何十億ドルものリベートを渡したと言われている(Starobin & Beiton[2002])。イテラに売却されたガス田は、いまでは、すべてガスプロム側に返却されている。

 グルジアのサアカシュビリ(Saakashvili)新大統領は、二〇〇四年、イテラから供給を受けたガスの代金、一億ドル強の支払いを拒否した。シュワルナゼ(Shevarnadeze)前大統領時代の契約はすべて無効だとしたのである(http://eng.primenewsonline.com/?c=&a=7283)。

 グルジアは、一九九一年の独立後、つねにエネルギー不足に苦しめられてきた。首都のトビリシ(Tbilisi)では冬の夜間など二時間しか通電できなかった。自国に発電能力がないことに加えて、ロシアが電力供給に制限を加えていたからである。輸入代金の支払いの滞りもあったが、主たる理由は、ロシアが、西側に接近しようとするグルジアに政治的圧力を加えていたからである。

 二〇〇三年、親ロシア派のシュワルナゼ大統領は、イテラと契約し、イテラによるグルジア国内でのガス生産会社の設立を認めた。しかし、民衆の暴動によってシュワルナゼが失脚し、その後を継いだ親西欧派のサアカシュビリが契約を破棄したのである。しかし、グルジアのエネルギー危機はまったく改善されていない(廣瀬陽子「旧ソ連諸国のエネルギー・フローを軸とした国際政治関係、域内協力の動きと可能性―カスピ海沿岸諸国を中心に―」; http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/kyusoren-5.pdf)。

 イテラの米国支店は、一九九二年に設立されている。この会社と取引をしていたガスプロムが第二のエンロン(Enron)事件かと騒がれる嫌疑をかけられた。

 まず、ガスプロムに対する会計事務所のプライスウォーターハウス・クーパーズ(PricewaterhouseCoopers、以下、PWCと表記する)の監査が甘かったことが疑われた。ガスプロムについては、すでに説明したが、付言すれば、二〇〇一年時点で年間二〇〇億ドルもの販売実績を誇る世界最大のエネルギー会社であり、保有するガス田の埋蔵量は、エクソン・モービル(Exxon Mobil Corp.)の六倍もある。

 このガスプロムを監査したのがPWCである。PWCもまた世界最大の会計事務所である。ロシアの企業が米国の会計事務所によって監査されているのである。PWCが、ガスプロムを監査するようになったのは、一九九六年からである。その監査報告が杜撰であるとの批判が主として、先述のエルミタージュ・キャピタルのブラウダーから出された。二〇〇二年二月のことであった。怪しい取引をガスプロムがしているのに、監査報告ではそのことに触れないでいる。

   しかし、世間はそうした不十分な監査報告しかPWCが出していないことを知っている。ガスプロムの株価が不当に安いのは、そうした悪い風評が立っているからである。PWCはそうした責任を取って監査業務から降りるべきであると、ブラーダーは、PWCを糾弾したのである。このとき、ブラウダーは若干三七歳であった。エルミタージュ・キャピタルの創業者として、ブラウダーは一九六六年からガスプロム株を買い進めていたのである。

 ただし、PWCだけを責めることはできない。先述の『ビジネスウィーク』誌によれば、そもそもガスプロムは正しい情報を開示せず、PWCとしても監査が不十分になるのは仕方がなかった。しかし、通常なら、会計事務所は正確な情報を開示しない会社の監査から降りるはずなのに、PWCはそうしなかった。その点ではPWCに責任があると『ビジネスウィーク』は書いている。

 プーチン大統領自身も、二〇〇一年六月にガスプロムは不明な取引で莫大な資金を支出しているのに、そのことを会計書類に記載していないと、ガスプロムを非難した(同記事)。ガスプロム株の三八%をロシア政府はもっていた。プーチンは、既述のように、レム・ビアヒレフ(Rem Viakhirev、Vyakhirevと表記されることもある。『ビジネスウィーク』誌は後者の表記)を解任し、新たにアレクセイ・ミレル(Alexei Miller)をガスプロムの社長につけて、ガスプロムのいかがわしい取引を暴き出させようとしていた。

 内外から批判が集中したので、PWCはロンドン支店のスタッフを中心とした調査チームを組織して、独自の内部調査書を作った。この内部資料を『ビジネスウィーク』誌が入手したのである。それによって、多くの不明取引が分かった。

 たとえば、シベリアのヤマロ・ネネツ(Yamal-Nenetsk)自治区との取引があった。通貨危機の直撃を受けて、資金繰りに困難を覚えていたガスプロムは、この自治政府への税金二億ドルを払えなかった。自治政府はガスでの現物支払いを認めた。政府当局は、このガスをイテラに非常に安い価格で売り渡した。そのイテラは、購入したガスを高値で外国に転売した。PWCの調査によれば、これは「大変な利益」(significant profit)をイテラにもたらしたという。

 これは確かに奇妙な取引であった。ガスプロムは、そもそも、適当な価格でガスを外国に販売し、その代金で税金を支払えばよかったのではないのかとの疑問が当然に沸く。しかし、PWCは、ガスプロムを擁護している。ガスプロムが税金を払うためには、高金利で借金しなければならなかった。ガスを外国に売却し、その販売額から税金を支払うというプロセスを踏む余裕は、ガスプロムにはなかったと説明していた。

 しかし、この調査報告に対して、エルミタージュ・キャピタルは、不満を表明した。エルミタージュ・キャピタルは、ロシア会計協会(Russia's Audit Chamber)に残された資料を調査し、別のシナリオを明らかにした。ガスプロムは、ヤマロ・ネネツに言われて、課税の代わりにイテラにガスを安く提供したことによって、五五億ドルもの損害を受けたというのである。

 PWCの調査は、子会社をただ同然で売り渡したことも明らかにした。ガスプロムは、子会社のガス生産会社、プルガス(Purgas)の株式の三二%をイテラにじつに一二〇〇ドルで譲渡したのである。市場価格からすれば四億ドルはしていたはずであり、この取引はイテラに莫大な利益をもたらしたと、調査報告は指摘した。

 イテラに利益を集積させようとガスプロムがしていたことは明らかである。ガスプロムは、イテラに六・一六億ドルの信用保証を与えたこともある。結果的にイテラは、世界第四位のガス会社にまで成長したのである。

 イテラは、ガスプロムの取引を調査するPWCに協力はしたが、誰が利益を得たのかということはPWC側に明らかにしなかったという。PWCがイテラの会計監査担当会社ではなかったからであるという。

 ロシアの日刊紙、『モスコフスキー・コスモレツ』(Moskovsky Komsomoletsがガスプロムの経営者と親族たちが、ガスプロムを食い物にしたいたことを暴露した(前掲『ビジネスウィーク』による)。モスクワに本拠を置くストロイトランスガス(Stroitransgaz)という石油パイプライン建設会社があった。この会社がガスプロムから一〇億ドルの建設代金を得た。この会社は一九九九年二月に解散したのであるが、この代金の半分がガスプロムの経営者とその親族の手に渡っていたことが明らかになったのである。その中には、社長のビアヒレフの娘もいたのである。

  PWCの調査報告によれば、ガスプロムの経営者は、ストロイトランスガスに大量のガスプロム株を額面価格で売却したという。一九九九年のガスプロムの会計報告では、ストロイトランス会社のことはまったく触れられていない。翌年の報告でやっと、関連会社、ストロイトランス会社を閉鎖したと記されたに留まる。元経営者のビアヒレフに『ビジネスウィーク』誌が質問したが、彼は、引退してしまったので、答えられないと言った。
 
 引用文献

Starobin, Paul & Catherine Beiton[2002],"Gasprom: Russia's Enron?," BusinessWeek, February  18.


福井日記 No.159 ポンチ式ファンド

2007-09-09 14:22:22 | 金融の倫理(福井日記)


 世界最大の天然ガス供給会社のガスプロムは、プーチン大統領が、ロシアの石油利権に群がる新興成金たちの支配を断ち切り、ロシアの外交政策の切り札に仕立て上げようとした企業である。

 
プーチンは、二〇〇一年、操業者の大富豪、チェルノムイルジンと、チェルノムイジンの後を次いだこれも大富豪のビアヒレフの影響力を遮断すべく、ビアヒレフを社長の座から引きずり下ろし、エネルギー省次官であった右腕のアレクセイ・ミレル
(Alesei Borisovich Mille, 1962~)を社長に送り込んだ。


 ガスプロムに送り込まれたとき、ミレルが対峙しなければならなかったのは、ロシアの富豪だけではなかった。すでに、西側資本がガスプロムには食い込んでいたのである。

 ビル・ブラウダー(Bill Browder)が一九九六年に創設したエルミタージュ・キャピタル(Hermitage Capital)が、ガスプロムの株を握り、一九九七年には、ガスプロムの経営体制の変更を迫り、ガスプロム株を三五倍に高騰させて大儲けしていた。この時のこのファンドのリターンは二二八%もあった。

 一九九八年、ロシア当局は、ブラウダーが国家の治安にとって脅威になるという理由で、彼を国外追放した。以後、彼は、ロシアに戻っていないが、ロンドンに本拠を構えてロシア・ビジネスを継続していた。しかし、二〇〇七年六月、脱税容疑でモスクワのオフィスの捜索があり、コンピュータやファイルが押収された。これによって、エルミタージュ・キャピタルはロシア・ビジネスを止めるという観測が流れたが、二〇〇七年七月一六日、ロイターの伝えるところによれば、ブラウダーはビジネスの継続を断言した(http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPN-26907820070717)。

 先述のリパブリック・ニューヨークを買収したHSBCは、これをHSBCリパブリックという投資会社に模様替えし、エルミタ-ジュ・キャピタルのパートナーズとなった(広瀬隆[2002]、二九二ページ)。彼らが、プーチン政権を揺さぶっているのである。
 HSBCに買収される前のリパブリック・ニューヨークは、その関連金融機関が、日本であまりにも恥さらしの詐欺事件を起こしている。クレスベール証券東京支店による詐欺である。

 英国のクレスベール証券本体には責任はない。クレスベール証券が経営不振に陥って、その東京支店をプリンストン・エコノミクス・インターナショナル(Pinceton Economics Internationa)に売却したのである。そして、親会社は破綻した。プリンストン・エコノミクス・インターナショナルは、買収したクレスベール証券東京支店をそのままの名義で残した。というのは、この支店は、一九八八年に大蔵省から第一号免許と第二号免許、さらに、一九九二年、第三号免許と第四号免許を取得して、純然たり日本の国内証券会社になっていたからである。

 プリンストン・エコノミクス・インターナショナルは、自己の発行するプリンストン債をこのクレスベール証券東京支店で販売させたのである。日本の企業は、ここにすでにきな臭さを感じるべきであった。

 この債券の運用会社が、プリンストン・グローバル・マネジメント(Princeton Global Management)であった。

 このプリンストン債の販売代金は、リパブリック・ニューヨークによって管理されていた。そして、この債券は、リパブリック・ニューヨークの子会社、リパブリック・ニューヨーク証券の資産を元に発売されていたものである。日本の一流企業七〇社ほどがこの債券を買っていた。ところが、一九九九年九月、リパブリック・ニューヨーク証券の資産はほとんどないことが判明した。先述のように、投資していたロシア国債価格の大暴落で、リパブリック・ニューヨーク関連の企業は大打撃を被っていたのである。同年、九月九日、金融監督庁は、プリンストン債の発売禁止令を出した。

 日本で発売された総額は三〇億ドルで、うち、一〇億ドルが未償還である。しかし、返済に責任をもつリパブリック・ニューヨーク証券の口座に残っているプリンストン・グローバル・マネジメントの資金は四六〇〇万ドルしかなかった。しかも、この口座は米政府によって差し押さえられてしまっていた。結局、一〇億ドルの損失を日本企業は被ったのである。すでに、日本のバブル崩壊とアジア通貨危機の直撃を受けて瀕死状態にあった日本企業が、この詐欺に引っかかったのである(「金融プロフェッショナルROOM一三」;http://www2.tokai.or.jp/timing/log/room/2_fdfljm_ALL.html)。

 プリンストン債の発行、発売、運用を行っていたのは、プリンストン系会社の所有者であったアームストロング(Martin Armstrong)であった。プリンストン債は私募債であって、
確定利回り型と変動利回り型があり、後者は、先物やオプションを駆使した非常に投機性の高かったものである(詳しくは、http://www.tanutanu.net/economy/「経済の研究No.144 プリンストン債の詐欺疑惑」)。

 アームストロングは銀取引で著名なディーラーであった。確定利回りのプリンストン債の利回りは二・五~五%程度であったが、変動利回り型の方は、好調なときは年利、三〇%以上の配当を出していた時期もある。ところが、一九九八年のアジア通貨危機からロシアのルーブル危機を契機として、巨額の損失を出すようになっていた。投資家たちが、資金を引き揚げ始めていた。

 その頃からアームストロングは、事情に疎い日本企業をカモにしていたのである。つまり、日本で新規に集めた資金を欧米の既存の投資家の配当や解約の原資としていたのである。これを業界用語では「ポンチ式」(Pnzi scheme)という。一九一九~二〇年、ポンチ(Charles Ponzi)という人が大規模に行ったことから、その名で呼ばれる。ねずみ講の一種である。ネズミ講は「ピラミッド式」(pyramid scheme)という。

 一九九九年九月末、この債券の販売は詐欺そのものであったことが明白になった。元本保証という触れ込みであたが、保証していたのは、アームストロング個人であった。日本企業が払い込んだ資金は、海外の口座に即座に送金され、大半は既存の投資家への返済に充てられていたのである。

 そもそも、ヘッジファンドは、ファンド自体が頻繁に売買されるものである。突然の営業手仕舞い、閉鎖も頻繁である。しかし、目まぐるしく持ち主の替わるヘッジファンドには必ず「プライム・ブローカー」(prime broker)とか「カストディアン」(custodian)とか呼ばれる資産管理会社が大きな役割をはたしている。

 ヘッジファンドは急拡大を続けていて、二〇〇七年時点ではその数約九〇〇〇、資産規模は一・三兆ドルと推察されている。そして、そうしたファンドの絶対的なパートナーがプライム・ブローカーであった。決済や口座管理などの代行業務を基本サービスとして、ファンドの立ち上げや投資家の紹介、ファイナンス、レンディングなどの支援をしてきた。ゴールドマンサックス、モルガン・スタンレー、ベア・すたーんずがプライム・ブローカーのビッグ三である。しかし、口座管理や決済処理には膨大なシステム投資が必要となり、資金力のない証券会社はプライム・ブローカーにはなれない(加藤友明「ヘッジファンド業界の新たなパートナー」; http://www.nri.co.jp/opinion/kinyu_itf/2007/pdf/itf20070504.pdf)。

 カストディアンは、投資家のために証券を保護預りする保管機関のことを指す。たとえば、日本で外国証券を購入した場合に、その証券そのものを日本に持ってくるわけではなく、現地の保管機関に預かってもらう。カストディアンの役割は、証券の保管業務だけではなく、元利金・配当金の代理受領、預り運用資産の受渡し決済、運用成績の管理など広範囲に及ぶ(http://www.nomura.co.jp/terms/japan/ka/kasutodian.html)。

 しかし、最近では、こうした機関ではなく、ファンド・アドミニ(fund admini)という新しい資産の一元的監理を引き受ける業者にファンドは傾斜するようになったという(finance.yahoo.com/q?s=pmcgx&d)。

 いずれにせよ、ヘッジファンドがなんらかの手の込んだ不正を働こうとするとき、必ず背後に控えているプライム・ブローカーとの連携が必要となる。不正に荷担するプライム・ブローカーが必ずある。

 ヘッジファンドではないが、エンロンのプライム・ブローカーはアーサー・アンダーセンであった。エンロンは、自己を監査するアンダーセンに、サービスに対する報酬を上回る多額の支払いをしていた。これは、エンロンの不正行為に対して、アンダーセンに目をつむってもらう賄賂であった。

 プリンストン債では、アームストロングが運用していたファンドのプライム・ブローカーは、リパブリック・ニューヨーク証券(Republic New York Securities)であった。リパブリックは、アームストロングのファンドの資産価値を過大評価した純資産報告書(net asset value letter)を二〇〇通以上も発行し、アームストロングはプリンストン債の安全を宣伝する武器としてこの報告書を利用していたのである。

 リパブリックのビジネスにアームストロングはかなり食い込んでいた。リパブリックが不正行為に荷担していたことが明白になったのは、リパブリックがHSBCに吸収された後のことであった。親会社になったHSBCは、日本企業が求める損害賠償に応じる旨を発表した。二〇〇一年一二月一七日のことである。和解に応じた日本企業五一社に対して、約八七〇億円がHSBCから返済された。実損額の八〇%ほどが回収されたのである。ただし、大きな被害を受けたヤクルトは、同時に証券取引法違反に問われていて損害賠償の対象にならなかった。丸善は和解に応じなかった(俊野雅司「代替的投資におけるデュー・デリジェンスの必要性」Daiwa Institute of Research LTD;http://www.dir.co.jp/consulting/report/pension/pension-mngt/020501pension-mngt-2.pdf)。

 ドイツのルールガス(Ruhrgas)もガスプロムの株式を取得していた。一九九八年一二月、六億六〇〇〇万ドルでガスプロムの株式の五%を取得したのであった。
 これによって、西側のエネルギー会社は色めきたった。ドイツ最大の電力会社のエーオン(EON)は、BPの保有するルールガス株などを集めて、ルールガスの支配権を握り、独占禁止法に抵触するのに、政治的判断によって、ドイツ政府はその合併を認可した(二〇〇二年七月)。エーオンは、さらに、英国第二位の電力会社、パワージェン(Powergen)をも買収する。ガスプロムの天然ガスの威力であった。ヨーロッパ天然ガスの四分の一をガスプロム一社で供給していたほど、この西シベリアの天然ガス確保は、ヨーロッパ企業にとって死活的に重要なものであった。

 引用文献

広瀬隆[2002]、『世界金融戦争』NHK出版。


福井日記 No.158 サフラとアメックス

2007-09-08 00:58:43 | 金融の倫理(福井日記)


 一九八〇年代、エドモンド・サフラは、アメックス(American Express)のマーチャント・バンキング担当重役をも務めていた。社長のサンフォード・ワイル(Sanford Weill)とは、強力なコンビであった。

  あまり、議論の対象にされていないが、現在の米国にはグラス・スティーガル法(Glass Steagall Act=The Banking Act of 1933)はなくなっていて、証券と銀行との垣根はとっくになくなっている。ロバート・ルービン(Robert Edward Rubin, 1938~)が財務長官時代に成立させた「金融近代化法」(Graham-Leach-Bliley Act=Financial Modernization Act of 1999)にグラス・スティーガルが取って代わったからである。一九九九年のことである。その意味で、シティグループは、投資会社そのものであるといってよい。このグラス・スティーガル法が制定されたのは、一九三三年であるが、ワイルはこの年に生まれた。その彼が、グラス・スティーガル法の廃止を梃子に、世界最大の金融コングロマリットのシティグループ(Citigroup)を作り上げたのである。

 ワイルは、一九七〇年に投資ブローカーのヘイデン・ストーン(Hayden Stone,Inc.)、七四年にシェアソン・ハミル(Sheason Hammill & Co.)、七六年フォークナー・ドーキンズ・サリバン(Faulner Dawkins Sullivan) とラムソン・ブラザーズ(Lamson Brothers)を買収した。

 不思議なことに、ユダヤ人社会では名門中の名門、しかも、世界ユダヤ人会議会長のエドガー・ブロンフィマン(Edgar Bronfman)一族の経営になるウォール街の老舗、レーブ・ローズ・ホーンブロワー(Loeb Rhoades Hornblower)を七九年に買収したことである。一九七九年のことである。無名のユダヤ人が、世界のユダヤ人のまとめ役である長老の経営する、栄光の老舗をなんの反対もなく買収できたこと、無名の彼に豊富な資金を融通したのは誰なのかと広瀬隆氏は問い、フランスのロスチャイルド財閥の投資銀行のラザール・フレール(LazardFreres)を創業した一族の末裔で、ウォール街を支配した、マイケル・デビッド・ワイル(Michael David Weill)がいたがが、もしかしたら、ワイルはこの一族につながっているのではないか、したがって、豊富な資金の出所はロスチャイルドではないかと推測されているが、十分、頷けることである。それほどワイルの買収は積極果敢なものであった(広瀬隆[2002]、八三ページ)。

 買収したレーブ・ローズ・ホーンブロワーとそれまでに買収した金融組織を併せて、その名をシェアソン・レーブ・ローズ(Sheason Loeb Rhoades)とした。この組織は、メリル・リンチ(Merrill Lynch)に次ぐ全米第二の投資銀行となった。
 一九八一年に、シェアソン・レーブ・ローズは、投資銀行、つまり、証券会社なのに、純然たる商業銀行のボストン・カンパニー(Boston Company)を買収した。本来、この買収は、グラス・スティーガル法に抵触するので違法であった。しかし、時のSEC委員長、ジョン・シャド(John Shad)はこれを黙認した。自らも、委員長に就任する前までは、投資銀行、E・F・ハットン(E. F. Hutton)を経営していたからである(広瀬隆、同、八四~八五ページ)。

 ワイルは、シェアソン・レーブ・ローズごと、アメックスの傘下に入った。一九八一年のことである。アメックスに買収されたという形を取ったが、一九八三年には、吸収されたはずのシェアソン側のワイルがアメックス社長になった。

 そして、それこそ、名門中の名門、クーン・レーブ(Kuhn Loeb)を一九八四年に買収してしまう。快挙というよりも大変なことである。クーン・レーブには、日露戦争時、日本の国債を買うことに貢献したジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff, 1847~1920)がいた。オットー・カーン(Otto Kahn)、ポール・ウォーバーグ(Paul Warberg、FRBの生みの親))など伝説上の人物が経営していたユダヤ人の金融機関である。ワイルに買収されたときには、クーン・レーブも合併を繰り返していて、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers, Kuhn Loeb Inc.)となっていた。これをワイルは三・六億ドルで買収したのである。そして、自らは、シェアソン・リーマン・ブラザーズ(Sheason Lehman Brothers)に改名した。なんと、老舗のクーン・レーブの名を落としてしまったのである。

 この大型買収劇で活躍したのが、サフラであった。彼は、自ら経営していた貿易開発銀行を、一九八三年にアメックスに売却したのである。その縁で彼は、マーチャント・バンカー担当重役として、アメックス経営陣の一角を占めることになった。そして、ワイルとコンビを組んで、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ買収に関わったのである(同、二九三ページ)。

 アメックスは、もともとは、トラベラーズ・チェックとクレジット・カードを扱っていた旅行金融・カード会社であった。当時のジム・ロビンソン(Jim Robinson)会長が、アメックスも銀行業に進出しようとして、買収相手を探していた。その点、サフラのジュネーブにおける個人銀行、貿易開発銀行(TDB)は格好の対象であった。TDBが、富裕な顧客を多数抱えていたからである。買収は成立し、サフラはアメックスの筆頭株主になった。

 サフラの先祖は、一四九二年のスペインにおけるユダヤ人追放によって、レバノンに移住した人である。ユダヤ人としての分を超えないサフラと対照的に、ロビンソン会長は万事に派手で、二人の性格は正反対であったという。結局、サフラはアメックス株を売却して、アメックスを去り、TDBよりも規模の大きい、サフラ・リパブリックを一九八八年に設立するのである。

 それまでは、マスコミを騒がしていなかったサフラが、この頃から執拗な反ユダヤ人キャンペーンの標的になった。いわく、サフラは、CIAと組んで、イラン・コントラに関わった。いわく、サフラは南米の麻薬取引のマネーロンダリングに便宜を図っている。サフラは、こうしたゴシップの震源地を探り、それがアメックスであることを突き止めて刑事告発をした。ロビンソン会長は八億ドルの和解金で示談とするが、結局は、株主訴訟を起こされて会長を解任されたのである(村上龍編集『Japan Mail Media』(JMM)、第165回「野蛮な来訪者」;http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report1_1072.html)。
 上記の経緯は、Burrough, Bryan[1992]による。

 そして、一九九九年、HSBCによる買収劇が展開されているさなか、ふたたび、サフラは、マネー・ロンダリングの渦中に放り込まれることになった。

 
サフラらのリパブリック・ナショナル・ニューヨーク銀行がその舞台となっていたとされたのである。新生ロシアの誕生を支援するために、米国からロシアに経済援助や銀行融資として巨額の資金が流れた。これが、ロシアの政治家や財界人たちに着服され、ルーブル危機を回避するために、米国に逆流し、不正な金だとは分からないように操作されているのではないかという疑惑が発生した。

 不正を疑われたのは、サフラのリパブリック銀行と、ニューヨークの老舗銀行、ニューヨーク銀行(Bank of New York)であった。この銀行は、一七八四年という古い時期に設立されたものである。

 米国司法省がこれらの銀行の調査に入り、ニューヨーク銀行に不正な口座を発見した。その額は、一〇〇億ドルを超し、ロシアの国家財政の半分に匹敵すると言われていた。サフラの銀行もこの取引に関わっているという疑惑をかけられて。しかし、調査はうやむやになり、両行の対ロシア取引が禁止されただけのことであった。

 サフラはともかく、ニューヨーク銀行はかぎりなく黒に近かった。まず、ロシアで銀行や石油会社をもつ「メナテプ」(Menatep)を経営するカガロフスキー(Konstantin Kagalovsky)の妻を行員として雇い入れ、夫の会社の金をタックスヘブンに移転させる役目を妻が担っていた。しかも、カガロフスキーは、一九九二年から九五年まで、IMFのロシア代表を務めていたのである。マネーロンダリングされたうちには、IMF分が二億ドルあったとされている。

 また、ロシアに「ベネックス」(Benex International)という会社がある。マフィアを支配するサムヨン・モギレビッチ(Semion Mogilevitch)資金を運用していると囁かれていたいわくつきの会社であった(Los Angeles Times, September 3, 1999)。その役員の一人であるベルリン(Peter Berlin)の妻もニューヨーク銀行は雇った。一〇〇億ドルの疑惑額の半分近くに当たる四二億ドルがニューヨーク銀行経由でタックスヘイブンに送られた。 

 西側の銀行が、ロシアと取引するさいに、スイスの銀行を通すことが多い。スイスこそ、秘密口座が命綱だからである。しかし、ニューヨーク銀行に関しては、スイスの金融当局は米国司法省の捜査に協力的であった。

 
一九九七年からナチスによるユダヤ人資産没収にスイスの銀行が協力していたのではないかとの疑惑が取り沙汰されたことが大きな影響をスイスの銀行に与えたのであろう。スイスの金融当局は、五九もの口座が捜査が済むまで凍結した(田中宇「ロシアとアメリカ:『冷戦後』の終わり」、1999年9月8日;http://tanakanews.com/990908russia.htm)。

 しかし、どうしたのか、この事件も封殺されてしまった(広瀬隆[2002]、二九五ページ)。

 引用文献

Burrough, Bryan[1992], Vendetta: American Express and the Smearing of Edmond Safra, Harper  Collins.
広瀬隆[2002]、『世界金融戦争─謀略うずまくウォール街』NHK出版。


福井日記 No.157 サフラとHSBC

2007-09-07 00:09:43 | 金融の倫理(福井日記)

 エドモンド・サフラ(Edmond Jacob Safra, 1932~1999)は、レバノン(Lebanon)のベイルート(Beirut)で生まれ、モナコ(Monaco)のモンテ・カルロ((Monte Carlo)の別荘を放火されて焼死した。ブラジルに帰化した。ユダヤ人であった一族は、代々、レバノン、ブラジル、スイスで銀行業を営んできた。隊商相手の商売であったらしい。

 エドモンドの家族は、アレッポ(Aleppo、シリア北部の都市)、イスタンブール(Istanbul)、アレキサンドリア(Akexandria)間の貿易に金融を与える銀行業に携わっていた。

  父は一九二〇年にジェイコブ・E・サフラ銀行(Jacob E. Safra Bank) を開設し、その時、エドモンドも一六歳になっていて、父の仕事を手伝ったが、家族は一九四九年にイタリアに移った。前年の一九四八年にイスラエルが建国されたことから、イスラエル以外の地に住むユダヤ人への迫害は強まっていた。

 サフラは、ミラノ(Milan)の貿易会社に就職した。家族は、一九五二年、さらに移動し、今度はブラジルに新天地を求めた。彼は、一九五五年、現地で金融組織を創設し、ここを拠点に、世界に金融組織を設立して行った。持株会社のサフラ・グループ(the Safra Group of Financial Institutions holding)となり、傘下には、南米サフラ銀行(Banco Safra S. A.)、サフラ・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク(Safra National Bank of New York)、バンク・サフラ・ルクセンブルグ(Banque Safra Luxembourg)、バンク・ジェイコブ・サフラ・スイス(Banque Jacob Safra Suisse)、がある。

 一九五六年、エドモンドは、ジュネーブ(Geneva)にプライベート・バンクの貿易開発銀行(the Trade Development Bank)を設立した。プライベート・バンクとは、富裕層に限定した銀行を指す。この銀行の設立時の資産が一〇〇万ドルであったのに、一九八〇年代には五〇億ドルと五〇〇〇倍にも増えた。金持ち相手のビジネスが効を奏したのである。

 一九六六年にリパブリック・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク(the Republic National Bank of New York)を名前通り、ニューヨークに、そして、後に同銀行のジュネーブ部門を作る(the Republic National Bank of New York(Suisse)。

 この銀行は、略して、リパブリック銀行(Republic Bank)と呼ばれている。一九八三年には、貿易開発銀行をアメックス(American Express)に四・五億ドルで売却した。この取引は、アメックスに大きな損害を与え、悪徳金融業者のサフラだけが儲けたとして物議を醸したものである。

 そして、一九八八年、富裕層対象のサフラ・リパブリック・ホールディングズ(Safra Republic Holdings)を設立した(本店は、ルクセンブルグ)。

 これら銀行の持株会社が、リパブリック・ニューヨーク(Republic New York Corporation)である(以下、RNYCと表記する)。ニューヨークで支店網を充実させ、支店数において、シティ・グループ(Citigroup)、チェース・マンハッタン(Chase Manhattan)に次ぎ第三位の座を確保していた。総資産出全米第一九位であった。

 圧倒的にはプラーベート・バンキング業務から利益を得ていて、運用は米国債などの諸国の国債であった。顧客向け貸付は総資産の三〇%弱にすぎなかった(RNYC Annual Reports)。

 一九九八年に、自己ポジションで保有していたロシア債券のデフォルトによって、一・六五億ドルの損失を計上したことが響き、一九九七年の純利益四・四九億ドルが二・四八億ドルに半減した。営業のほとんどは自己勘定運用であった。総運営資本二八億ドル強のうち、自己資本勘定運用が四〇%強の一二億ドル弱を占めていた(一九九八年時点、RNYC Report)。サフラ自らもパーキンソン病に苦しんでいたこともあって、ロシア債券による損失は大きな打撃となった。

 一九九〇年代初め、彼の資産は二五〇億ドルあったと推定される。
 セファルディ系(Sephardic)ユダヤ人社会に多額の寄付をした。セファルディ(Sephardi)というのは、スペイン、ポルトガル、北アフリカ系のユダヤ人のことを指している。彼らの話すヘブライ語の訛りのこともセファルディという。ちなみに、ドイツ、ポーランド、ロシア系のユダヤ人のことをアシュケナージ(Ashakenazi)という。彼が寄付したものに、エルサレム(Jerusalem)市庁舎に属する一連のの事務所棟がある。それらは、彼の名にちなんでサフラ・スケア(Safra Square)と名付けられている。晩年は、ジュネーブ、ニューヨーク、リビエラ(Riviera=フランス側地中海の避寒地)を行ったり来たりしていた。そして、一九九九年一二月三日、モナコのモンテ・カルロ滞在中に焼死。放火と言われている。放火犯とされた人は一〇年の懲役であった(Wikipediaより)。

 当時、様々なメディアがこの事件に陰謀の臭いを嗅ぎ取り、特集を組んだが真相はまったく分からなかった。進行中の案件ではあったが、焼死した直後に、彼の所有する銀行がHSBCホールディングに買収されたことが臆測を呼んだのである。

 RNYCを買収したHSBCホールディングスは、ロンドンに本拠を置く世界第三位の金融グループである。世界優良ランキングを発表する(The Foebes Global 2000, March 29, 2007)によれば、二〇〇六年末時点の同社の総資産は一兆八六〇七億ドルであった。

 香港で一八六五年に創設された英国植民地銀行、香港上海銀行(The Hongkong and Shanghai Banking Corporation Limited)を始祖とする。一九九一年までは本店は香港にあったが、香港の中国返還後、一九九三年に本店をロンドンに移した。店舗数は、シティグループよりも多い。「世界の現地銀行」(The world's bank)となることを標榜していることもあって、二〇〇六年末で世界に一万を超える店舗網を有する。シティグループが約五〇〇〇店舗数であるので、倍程度の拠点数を誇っている。

 HSBCホールディングスは株式時価総額で、シティグループ、バンカメ(The Bank of America)に次ぐ第三位であるが、上位二社よりもはるかに国際的な展開をしている。シティグループは、営業基盤の六〇%が米国内にあり、バンカメは、九五%も米国に依存している。それに対して、HSBCは世界にまんべんなく事業展開をしている。

 税引き前利益、五〇〇〇万ドル以上上げている進出国は、南北アメリカ六、アジア太平洋一〇、ヨーロッパ六、中東・アフリカ五、合計二七か国・地域となる。
 アルゼンチン、バミューダ諸島、ブラジル、カナダ、メキシコ、米国、オーストラリア、中国、香港、インド、インドネシア、マレーシア、シンガポール、韓国、台湾、タイ、フランス、ドイツ、アイルランド、マルタ、スイス、英国、エジプト、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、トルコである。

 同行は、二〇〇七年夏に世界を震撼させた米国のサブプライム問題が深刻化するであろうと金融業界の中ではもっとも早く気付いたと、そのホームページで豪語している。二〇〇六年度の決算で、日本円にして一兆円亥jの損失引当金を北米子会社のために用意していたという(ウィキペディアより)。

 同じく、アジア通貨危機によって大きな痛手を被ったHSBCは、一九九八年から五か年計画で、営業基盤を固めるために、安定した富裕層に照準を置く、プラーベート・バンク業務の拡大に乗り出した。その面では、体力を消耗しつつあったRNYCの買収は、HBSBCにとって、格好の戦略であった。そして、一九九八年五月、RNYCとそのグループに属するサフラ・リパブリック・ホールディングス(Sara Republic Holdings)買収計画を発表する。RNYCに七六億ドル、サフラ・リパブリックに二六億ドル、計一〇三億ドルを用意していた。一九九七年のドイツ銀行による、バンカーズ・トラスト(Banker's Trust)買収が一〇一億ドルであったのだから、当時としては外資による米国銀行買収の最大ケースであった(HSBCホームページ)。

福井日記 No.156 金融の水脈

2007-09-03 14:46:46 | 金融の倫理(福井日記)


 「ユダヤ人が世界を支配している」などと言えば、ただちに、またあのきな臭い「陰謀史観」かと、鼻でせせら笑われるのがおちである。

 しかし、全米科学賞受賞者の三分の一はユダヤ人であるし、世界の金融界の大物には、ユダヤ人がとてつもなく多いという現実を前にするとき、そうした陰謀史観を荒唐無稽なものとして捨て去ることはできない。少なくとも、金融界には無視できない強固なユダヤ人水脈がある。

 もちろん、水脈はユダヤ人だけではない。ユダヤ人を中核とし、各国の権力の移行期に素早く利権を拾って、それをただちに国際的な水脈に流す権力利用者たちの集団がある。

 このような国際的な国際水脈=利権集団の存在を如実に見せたのが、ソ連崩壊後のエリツィン、プーチン政権下のロシアである。

 LTCMを破綻に追いやった一九九八年のロシア経済情勢は、石油がらみの西側金融資本の跳梁跋扈の土俵であった。

 広瀬[2002](第五章)を援用してその態様を見る。
 『フォーブス』(Forbes)は、二〇〇一年の世界の大富豪五〇〇人をよく発表しているが、二〇〇一年には、ロシアの大富豪が一一人入った。この一一人は、なんらかの形で、エリツィン(Boris Nikolayevich Yeltsin, 1931~2007)政権と強い関係をもっていた人たちである。

 第一位のホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)は、一九八八年までは共産党幹部、エリツィン時代には、ロシア政府の主任経済顧問となって、民営化に移行するさいに利権を集積して行った(広瀬[2002]、二七五ページ)。ユコス(Yukos)を買収した後、ルーブル危機のときに、石油増産に踏み切り、プーチン(Vladimir Vladimirovich Putin, 1952) の石油戦略に上手く適合した。価値が下落するルーブル対価の原油販売よりも、西側通貨対価の販売に切り替え、ユコスの原油価格の安さを売り込んでいたのである。

 二〇〇一年九月一一日の事件が起こった後、さらに積極的に、米国にユコス石油の売り込み攻勢をかけた。大増産を継続して、サウジアラビアの生産量を超えた。二〇〇二年五月のユコス石油の株式時価総額は二一〇億ドルで、シティ・グループ(Citi-group)の一〇分の一にもなるという暴騰ぶりであった(同、二七八ページ)。『フィナンシアル・タイムズ』(Financial Times, 24th May 2002)では、一八七億ドルで、時価総額において、ロシア企業で初めて世界トップ五〇〇社に入った(二二七位)と報じられた。

 九・一一事件直後の一一月、プーチン大統領が訪米、その返礼に子ブッシュ大統領が二〇〇二年五月二四日、訪ロ。そして、ホドルコフスキーは、二〇〇万バレルの石油を積んだをタンカーを、同年七月三日、ヒューストン港に横付けさせたのである。

 西側資本もユコスに投じられていた。フランスのクレディ・リヨネ(Crédit Lyonnais)副頭取のジャック・コシューシコ=モリゼ(Jacques Kosciusko-Moriset)が、ユコスの経営に参画していた。

 彼は、米国独立戦争に参加して英雄となった一八世紀のリトアニア(Lithuanian)貴族(ポーランドから米国へと渡る)、タデウス・コシューシコ(Andrew Thaddeus Bonventure Kosciusko)の末裔の一人であった。

 コシューシコの末裔たちは、ヨーロッパの上流閨閥を形成していた。コシューシコ=モリゼの同名の父は、フランスの国連大使や米国大使を歴任。兄フランソワ(Francois)はフランスの原子炉メーカー、フラマトム(Framatome)の理事。一族のオリガ・フォン・ルート(Olga Van Root)オキシデンタル石油(Occidental Oil)会長、アーマンド・ハマー(Armand Hammer, 1898 ~1990)の妻であった。

 ユコスには、油田採掘のフランスの企業、シュルンベルジェ(Schlumberger)の幹部、ミシェル・スーブラン(Michael Souverain)も経営陣にいた。これら、旧ソ連や過渡期のロシアに関わっている、主としてスイスやフランスのエリートたちは、「赤い貴族」と呼ばれていた。旧ソ連の民主化の影には必ずこうしたフランス、スイスの大富豪の名前が登場する(同、二七九ページ)。

 ソ連崩壊後のロシアの石油会社の会計監査を担当していたのが、エンロン事件で解散に追い込まれたアンダーセンの子会社、アンダーセン・ロシア(Andersen Russia)CISであった。

 アンダーセン消滅後は、ロシア最大の会計事務所は、米国の会計監査会社、アーンスト&ヤング(Ernst & Young)に引き継がれた。子ブッシュ大統領が、SEC委員に任命したシンシア・グラスマン(Cynthia  Glassman)(女性)の出身会社である(同、二七九~八〇ページ)。

 富豪順位、第二位のポターニン(Vladimir Potanin)も、一九九二年外国貿易省の高官であった。借金だけを国に押しつけて、自らはずさんな民営化路線に乗って、ちゃっかりとソ連時代の貿易銀行の資産を乗っ取り、金融会社のMFKと貿易銀行(Unexim Bank)の経営に乗り出した新興財閥である。ノリリスク・ニッケル(Norilsk Nickel)の民営化(一九九五年)のさいに、株式を不当に安く取得したことが二〇〇〇年七月に発覚した。一九九六~九七年、チェルノムイルジン(Viktor Chernomyrdin)首相の下で第一副首相を務めた。

 ポターニンは、投資会社、ルネッサンス・キャピタル(Renaissance Capital)を設立した。出資者は、クレディ・スイス・ファースト・ボストン (Credit Suisse First Boston)、ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)、モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター(Morgan Stanley Dean Witter)、BNPパリバ(BNP Paribas)、等々の欧米資本であった。エレクトロニクスや資源関連の投資を行っている投資会社である。一九九七年、ジョージ・ソロス(George Solos)が、ポターニンと組んでロシアへの投資を開始した(同、二八一ページ)。

 富豪第三位のウラジミール・ボグダノフ(Vladimir Bogdanov)については、どの程度、権力に近かったのかはよく分からない。権力関係は不明だが、ロシア第三位の石油会社、スルグトネフテガス(Surgutneftegaz)の経営者である。ちなみに、二〇〇二年時点でのロシアの石油会社のランキングは、一位がルクオイル(LUKoil)、二位がユコス、三位がスルグトネフテガス、四位がタトネフチ(Tatneft)、五位がシブネフチ(Sibneft)であった(同、二八四ページ)。

 富豪第四位のレム・ビアヒレフ(Rem Viakhirev)は、世界最大の天然ガス会社、ガスプロム(Gazprom)の経営者である。ガスプロムを最初に設立したのは、ビアヒレフではなく、富豪第八位のビクトル・チェルノムイルジンであった。創業者、チェルノムイルジンが一九九二年に首相になったために、ガスプロムの後継経営者に任じられたのである。「ガスの帝王」と奉られていたが、二〇〇二年六月、プーチンの手によって、経営陣から追放された(同、二八三ページ)。

 チェルノムイルジンの影響力の強さは、ガスブロムの創設とともに、電力にも現れている。

 プーチン登場以前に電力を支配していたのは、新興財閥のアナトリー・チュバイス(Anatoly Borisovich Chubais, 1955~)であった。電力会社の名は、「ロシア統一エネルギー・システム」(the Unified Energy System of Russia)である。チュバイスも、チェルノムイルジン首相時代に蔵相兼第一副首相や大統領府長官を務めていた。大臣の任期中にこの電力会社株の一五%を不法に外資に売ったとして、責任を問われて一九九八年八月、大臣を解任されたのだが、なんと、解任後に、この電力会社を牛耳るようになっていたのである。

 富豪第五位のロマン・アブラモビッチ(Roman Abramovich)は、ユダヤ人石油王である。ロシア第五位の石油会社、シベリアのシブネフチをボスのボリス・ベレゾフスキー(Boris Berezovsky)と九〇%を共同支配している。 

 ベレゾフスキーは、シブネフチとロシアの独占航空会社、アエロフロート(Aeroflot)を支配していた。彼は、ユダヤ人であり、全ロシアのユダヤ人資本家の事実上のボスであった。エリツィン大統領を指一本で動かす「泥棒貴族の代表者」と呼ばれていた(同、二八〇ページ)。泥棒貴族というのは、権力者にすり寄り、取り巻きとなって、無秩序な民営化の気運に乗じて、法外な利権を獲得してしまうという、一種の泥棒行為をして大富豪に成り上がった連中を指す。このように、ロシアの民主化には、かなりいかがわしい人物群が見受けられる。

 『フォーブス』は、彼をロシアにおけるユダヤ人犯罪組織の「ゴッド・ファーザー」として描いた(同、二八一ページ)。先述のポターニンも彼をボスとして仰いでいる。

 ベレゾフスキーは、第一〇位の富豪にランクされている(同、二七五ページ)。
 一九九九年の歳末に辞任したエリツィンの後継者(正式に大統領になったのは二〇〇〇年三月二六日)ウラジミール・プーチンが、二〇〇一年秋から着手したのは、鉄道、電力、ガスの三大独占事業のを政府に召し上げることであった。

 この三大事業で雇用されている人数は二五〇万人もいた。中でも鉄道は一五〇万人も抱えていた。この鉄道を支配していたのが、ベレゾフスキーである。ベレゾフスキーの事実上の配下であった時の鉄道大臣、ニコライ・アクショネンコ(Nikolai Aksënenko, 1949~)が資金の不正流用を行ったとして二〇〇二年一月三日、プーチンによって追放された。

 アブラモビッチは、エリツィン一家の金庫番の役目をはたしていた。しかし、後ろ盾のベレゾフスキーが失脚した後の二〇〇一年、極東ロシアのチュコトカ(Chukotka)地域の知事になった(同、二八三ページ)。

 富豪第六位は、ワギット・アレクペーロフ(Vagit Akekperov)である。六位とはいえ、ロシアの石油外交において、彼が、もっとも重要な人物であるとされている。ロシア最大の石油会社、ルクオイルの創設者である。

 アレクペーロフは、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のバクー(Baku)油田のエンジニアであった。ソ連崩壊後の一九九〇年代に燃料エネルギー大臣代理となり、その権力を利用して、一九九二年、ソ連の油田群を統合してロシア最大の石油会社、ルクオイルを創設した。ルクオイルは、二〇〇二年時点でロシアの原油生産量の四分の一を占めた。油田の大半は西シベリアにあり、従業員は一三万人を超す。ルクオイルもまたロシア外交の基本の一つとなっている。

 彼が、バクー油田とカスピ海を通るパイプライン・コンソーシアムCPC建設の主役を担うことになる(同、二八四ページ)。

 富豪第七位のミハイル・フリードマン(Mikhail Friedman)もまた外国貿易大臣と図って石油利権を手に入れている。チュメニ(Tyumen)石油の大株主で経営者である。米国で石油取引における詐欺行為をしていたマーク・リッチ(Marc Rich, 1934)のビジネスを二〇〇一年に買い取り、以後、アルファ・バンク(Alpha bank)などのアルファ・グループを率いている。

 そして、第八位が、すでに上で幾度も触れたが、ガスプロムを創設したチェルノムイルジンである。その後、一九九二年一二月一四日から九八年三月二三日までの五年間以上、エリツィン大統領の下で首相を務めた。首相退任後、すぐさまガスブロムに復帰し、二〇〇〇年にはウクライナ大使に転出した。

 富豪第九位のオレグ・デリパスカ(Oleg Deripaska)は、エリツィンの孫である。そして、第一〇位が、すでに説明した大物のベレゾフスキーだったのである。

 ソ連時代の基幹産業であったエネルギー部門が、民営化の名において、欧米資本と手を結んだ泥棒貴族たちによって、私物化され、欧米からの膨大な資金流入があったと予想されるに足りるロシアの新興財閥形成過程であった。

 引用文献

広瀬[2002]、『世界金融戦争─謀略うずまくウォール街』NHK出版。


福井日記 No.155 監督機関を取り込むファンド

2007-09-02 23:03:35 | 金融の倫理(福井日記)

  LTCMは、監督機関をも取り込むことに成功した。米連邦準備制度理事会(FRB)の副議長(一九九〇~一九九四年)、デビッド・W・マリンズ(David Wiley  Mullins, Jr., 1946~)を採用したのである(一九九四年二月一五日)。ファンドの運用開始直前のことであった。

  当時のFRB議長は、アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan、在任一九八七~二〇〇六年)であった。マリンズが、グリーンスパンの後を次いでFRB議長になるというのが、当時のウォール街の一般的な観測であった。その大物をLTCMは自社に引き入れたのである。

 マリンズもまた、一〇歳代から株の売買に熱中していた。父親はアーカンゾー大学の学長をしていた。父親の名も子と同じのデビッド・W・マリンズの名(David Wiley  Mullins)である。アーカンソー大学(the University of Arkansas)のマリンズ文庫は有名である(http://libinfo.uark.edu/SpecialCollections/findingaids/mullins/index.html)。

 マリンズは、MITで学び、マートンに師事していた。ハーバードの講師も務めた。学生の人気は高かったという。そのときに、マートンの弟子で、ソロモンからLTCMに入社することが決まっていたエリック・ローゼンフェルド(Eric Rosenfeld)と同僚であった。ローゼンフェルドは、マートンを口説いて一九八〇年代にソロモンの顧問に就任させていた。

 マリンズは、政府の依頼を受けて、一九八七年の株価暴落(ブラック・マンデー)の原因を調査するレポート作成に参加したことがある(Brady, Nicholas F.[1988])。このときのマリンズは、新興デリバティブ市場には懐疑的であった。レポートの中で、彼は、一九八七年株価下落の大きな原因はデリバティブ市場の特性にあると断定した。デリバティブ市場では、売りが売りを呼ぶという損失を加速化させる構造があると断定したのである。

 調査レポート作成後、財務省に移って(一九八九年、財務次官補)、破綻したS&L(
Savings & Loans=貯蓄貸付組合)
救済法の法案作りに携わった。「一九八九年金融機関改革救済執行法」(Financial Institutions Reform, Recovery, and Enforcement. Act of 1989)がそれである。

 当時、彼は、金融市場の変化があまりにも激しく、つねに新しいものが生まれてくるので、それぞれの市場がニアミスする危険性はいつもあると発言していた。市場は、完璧な価格設定機構ではなく、周期的に正常な軌道から脱線してしまうという認識をもっていたのである。民間金融機関が「流動性危機」に直面したときに、流動性を瞬時に供給することによって、破綻を防止するのが連銀の任務の一つであると、LTCMに移籍する一年ほど前に発言している(Bacon, Kenneth H.[1993])。

 LTCMが破綻して、FRBが強引に傘下の銀行に救済資金を提供させたのであるが、マリンズはそのことを予見していたかの発言をしていたのである。

 金融機関のお目付役のFRBの大物がLTCMに参加するという情報は、マートンの参加以上に大きな影響を出資機関に与えた。世界中の政府系金融機関がLTCMに出資することになったのである。シンガポール政府投資公社(Government of Singapore Investment Corporation)、イタリア中央銀行(Banca d'Italia)、台湾銀行、香港土地開発局、バンコク銀行(Bangkok Bank Public Company Limited)、等々が莫大な資金をLTCMに注ぎ込んだ。イタリア銀行だけでも一億ドルも出資した。通常、外国の政府系金融機関は、民間のヘッジ・ファンドには投資しないものである。マリンズの人脈がいかに効を奏したかをこれは示している。

 政府系金融機関が出資するのだからと、これまた諸外国の民間銀行も競って出資した。住友銀行は一億ドルを出資した。ドイチェ・バンク(Deutsche Bank)、リヒテンシュタイン・グローバル・トラスト(Liechtenstein Glob Trust)、ブラジル最大の投資銀行のバンコ・ガランティア(Banco Guarantia)、スイスのプライベート・バンクであるイリアス・ベアー・グループ(Julius Baer Group)、それに国際的なバンカーであるエドモンド・サフラ
Edmond Jacob Safra, 1932~1999)
が運営する非公開組織のリパブリック・ニューヨークRepublic New York)、等々である。

 著名な大富豪も続々と投資に参加した。ハリウッドのエージェントであるマイケル・オビッツ(Michael S. Ovitz, 1946~)、ナイキ(Nike)CEOのフィル・ナイト(Philip H. Knight, 1938~)、エンロン(Enron)の事実上のオーナーであったロバート・ベルファー(Robert Belfer)、ベア・スターンズ(Bear Stearns Companies)CEOのジェームズ・ケイン(James E. (Jimmy) Cayne)、マッキンゼー(Mckinsey)のパートナーたち、等々であった。

 大学も出資した。セント・ジョーンズ大学(St. John's University)、イェシバ大学(Yeshiva University )、ピッツバーグ大学(University of Pittsburgh)などである。

 一九九四年二月末に運用を開始したが、この時点で、LTCMは一二億五〇〇〇万ドルを集めたのである。わが住友銀行の出資額一億ドルがいかに大きかったかが分かるだろう。イタリア銀行も一億ドル出資している。ファンドの立ち上げとしては市場最高額であった。

 数十億ドルの自己資本、七〇〇〇人の従業員というソロモンから「アービトラージ・グループ」を引き抜き、ソロモンの信用力もなく徒手空拳を覚悟で、一一人のパートナーズ、トレーダーと事務員三〇人程度という小集団で出発したLTCMが、一二億ドル強も集めることに成功したのは、メリウェザーの名声だけでなく、ノーベル賞受賞確実であった二人の著名経済学者、そしてFRBの超大物の参加による巨大な影響があったことは否定できないであろう。

 マリンズが加わる前は、米国一の大富豪のウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffet, 1930~)がメリウェザーの要請を蹴飛ばした。ゴールドマン・サックスGoldman Sacs)のジョン・コーザイン(Jon Stevens Corzine, 1947~)も自己の傘下に屈服しないのならと出資を断った。スイス・ユニオン銀行(Union Bank of Switzerland=UBS)も熟慮の末に断っていた(以上は、Lowenstein, Roger[2000], 邦訳、六一~七二ページによる)。

 しかし、エドモンド・サフランといい、ロバート・ベルファーといい、様々の風聞が飛び交う人物がLTCMに関わっていたことを軽視してはならないのである。この点については、次稿。